48年ぶりの告白、生々しい傷跡 |
金一洙さんは1943年2月、慶尚南道から長野・平岡発電所の熊谷組建設現場に強制連行され、45年8月まで強制労働に従事させられた。94年に名古屋で死亡したため、日弁連への申立てを行ったのは李さんの息子である。 「二度と来るもんかと心に決めてからここを去ったんだが…」 金さんは、強制労働の現場である平岡発電所で、吐き捨てるように言った。93年4月のことである。 金さんは48年間、自己の体験を自ら語ろうとはしなかった。が、戦争責任をいまだ回避しようとする日本政府に対して体験を告発しようとの愛知調査団の説得と、調査団が一般公開(92年)した名簿に自らの名前を発見したことから、調査団とともに現場を訪ねる気になった。 棒で殴られる 金さんが平岡発電所へ強制連行されたのは、43年2月のこと。50人くらいずつ収容された飯場が15〜16カ所あったという。朝鮮人が主にやった作業は、掘削と土の運搬。金さんは山の山腹につくられたトロッコ道を、1日に10数回往復した。「平たんな道ならまだしも、坂道がどんなにつらかったか…なにしろ気力がなかったからね。食べられなくて」―金さんの右腕のすねには、トロッコをねかせて土を捨てるときに怪我した傷跡が生々しく残っていた。それに早く押さないかと現場監督に棒で殴られた腰がうずき、時々寝込むことがあると言っていた。 金さんは解放までの3年間、現金を手にしたことがなかった。2円50銭が日給という約束だったが、たばこと食事代で60銭を引かれ、残りの1円90銭は熊谷組が「保管」したという。しかし、その後なんの連絡もない。 拷問のすえ殺害 同僚の1人が逃げようとして捕まり、拷問のすえに殺され、もう1人がトンネルの中で機関車にひかれて死亡した。同じ郷里の者が集まって弔おうとすると、シェパードを連れた舎監がべんを振りかざして追い払った。金さんは、佐久間ダム付近の小高い山の上に同僚の屍を担いでのぼり葬った。 憲兵の監視下、発電所周辺の自然条件は険しく、逃亡することはほぼ不可能であった。(朝鮮人強制連行調査の記録―中部・東海編および日弁連の勧告より、羅基哲記者) [朝鮮新報 2003.3.27] |