「葬儀のひとつもやってくれん」 |
1922年2月、忠清北道で生まれた高兼紹さん(愛媛)は、2度にわたって徴用で日本に連行された。 鉄錠生活 私が故郷を離れたのは1942年3月、21歳の時である。初めは兄の名で徴用がきた。たった一人の兄で後継ぎだから、兄がいなくなると畑仕事をする人がおらんと、自分が代わりに行った。 釜山から連絡船に乗り、下関に連れてこられ、九州・飯塚の昭和炭鉱に送られた。炭鉱の寮には約300人がいた。逃亡防止のため部屋には鉄錠がかけられ、狭い入口には日本人2人が昼夜見張っていた。 どこでも一番危ない仕事をやらされたのは朝鮮人だ。坑内の天井からパラパラと石が落ち、落盤の危険。ガス爆発を防ぐ安全装置もなく、常に死と隣り合わせで働かされた。私は坑内で石炭を掘り、台車を引っぱって外に運ぶ作業をしたが、途中疲れて休むと日本人の監督に殴られた。 ある時は落盤で死んだ友人の死体を横にして、棺おけが届くまで働いたこともある。朝鮮人の命より生産のほうが重視された。働かせるだけ働かせて、死んだら葬儀のひとつもやってくれん。石ころひとつ置くだけで…。誰がどのように死んだのか、今では何もわからん。 半年くらい働いた頃、このままでは自分も死んでしまうと思って逃走を計った。当時、脱走して捕まった人は、犬のように鎖を腰に巻かれ、坑内の入口につながれて3日間の絶食をさせられ、他の徴用者への見せしめとして日本人作業員が交替のたびに半殺しの目にあわせていた。 給料はなし 逃げて2日目に警察に捕まったが、朝鮮船に隠れて来たと言い張り、下関から夜の船に乗せられた。船の中では警官に「この野郎、誰が日本に行けと言った」と、気絶するまで殴られた。 43年春、再び徴用で愛媛県の佐々連鉱山(現在の別子鉱山)に連れて行かれた。ダイナマイトで鉱山に穴をあける作業は命がけの仕事だった。給料はなかった。その年の5月、脱走し、高知で飯場を転々とし、飛行場で働いた。44年には愛媛・松山で飛行場建設、防空壕掘りなどの仕事をした。(「朝鮮人強制連行調査の記録―四国編」より、羅基哲記者) 各地の調査団では日弁連の勧告を日本政府に実現させるため、今後、犠牲者の遺骨調査などを全国一斉に行う予定だ。 [朝鮮新報 2003.4.11] |