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3度の連行、刑務所の方がまし

 1922年8月、慶尚南道で生まれた崔英植さん(山口県下関市)は、3度にわたって強制連行され、九死に一生を得た。

1年で130円

 故郷では39年ごろになると、畑などでいきなり拉致され、日本に連行される者が相次いだ。自分もいつ拉致されるかと不安になり、日本から来た佐藤組の人集めの「募集」に応じた。各地から集められた約480人が釜山から関釜連絡船で下関に着き、専用列車で約2日後に富山県の新川郡に着いた。年齢は17歳の自分が一番若く、20〜25歳の人がもっとも多かった。道中話を聞くと、「警察と区長に畑で無理やり拉致された」「夜中に寝ている時に捕まえられた」という人もいた。「募集」とはいうものの、強制連行そのものだった。

 作業場は黒部ダム。約480人が2班に分かれ、私はダムのえん堤工事で、トロッコのレールの枕木運搬をおもにやらされた。作業着も地下足袋も支給されず、裸足で背中の背負子に丸太を乗せ岩壁を歩くのだが、一歩踏み外すと200メートル下に落下してしまう。誤って落ちて死者も出たが、遺体を捜せない時もあった。

 食事は大根や玉ねぎの汁と雑穀の混ざった飯だった。まだ、刑務所のほうがましだった。

 一年後、帰国して故郷の面事務所で初めて1年分の賃金が手渡されたが、たったの130円ほどしかなかった。

自爆命令も

 それから40日後、区長が来て「日本に行って働け」と言われた。今度は約200人の同胞とともに福岡県の三菱飯塚炭鉱に送られた。

 周囲は逃亡防止のため、竹を編んだ柵で囲われていた。坑内ではみなガスマスクを着用していたが、朝鮮人には支給されなかった。

 炭鉱からうまく逃亡でき、下関にいた兄のところにたどり着いた。そして42年に結婚。関門鉄道のトンネル工事に従事した。そこには朝鮮半島から多くの人が「募集」で連れてこられているとの話も聞いた。

 翌年、今度は召集令状が届いた。召集先は慶尚南道の大邱。以前に受けた身体検査で足が速いことが評価され、「二一八部隊」の特攻隊に配属されることになった。師団は朝鮮人8000人、日本人2000人。訓練後、満州の砂漠地帯へ行った。塹壕掘りをやらされたり、ダイナマイトを体に巻きつけ「敵」の戦車に飛び込めと命令された。自分らの部隊は助かったが、ほかの部隊は全滅した。(「朝鮮人強制連行調査の記録―中国編」より)

[朝鮮新報 2003.4.24]