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熊本県内の強制連行での朝鮮、中国人犠牲者の合同追悼−碑建立に3年、赤星善弘住職

あいさつする赤星住職

 熊本県内の炭鉱などに強制連行された朝鮮人、中国人を追悼する合同の追悼の集い(実行委代表=赤星善弘住職)が12日、荒尾市樺小岱山の正法寺で行われた。

 総聯県本部委員長、民団県本部団長、県華僑総会会長、荒尾市長をはじめ地元の同胞、日本人ら50人と共に私は初めて参加した。

 正法寺の境内には二つの碑が立っている。明け方まで降り続いた春雨に洗われたツツジや新緑の木々に囲まれた碑の一つは「中国人殉難者供養塔」と記され、もう一つには「不二之塔」と記されている。「不二」とは仏教用語で、本来ひとつであるという意味だ。南北朝鮮が早く一つになってほしいとの願いが込められている。

 追悼碑は1972年に正法寺の赤星善弘住職によって建立された。

 「たったこれだけの碑を建てるのに3年かかり、石も投げつけられた」と赤星住職は建立に至るまでの紆余曲折を語ってくれた。熊本県には「月が出た 出た三池炭鉱の上に出た」の「炭坑節」で知られる三井三池炭鉱があった。同炭鉱に強制連行された朝鮮人は5000人余り。大牟田市と荒尾市の19カ所に収容所があり、作業中の事故や、酷使虐待による朝鮮人中国人死亡者は約700人にものぼる。

荒尾市樺小岱山正法寺で行われた合同追悼式典の出席者

 幼少の頃、悲惨な姿を目の当たりにした。アジア太平洋戦争勃発の前後、40年頃から連行者が増えた。虐待に堪えかね逃亡する連行者も続出した。空腹を凌ぐため有明海の貝を掘って食べ喉の乾きを訴える彼らに、母親はハブ茶を振る舞った。その光景は赤星住職の脳裏に焼きついた。

 13歳で仏門に入り高野山で修行、空海弘法大師の教えを学んだ。「大師は中国(宋)に渡り密教を伝授された。もし大師が現世の方であるならば、先輩国である中国、朝鮮人の犠牲者供養をされないわけがない、自分が坊主になったからには供養をしなければ」と思ったことが碑建立の発願の動機だった。

 67年から3年間、趣旨書を持って僧侶らと県下を回り広く県民に歴史の事実を訴えた。碑の資金は托鉢で浄財を集めて歩いた。歴史の事実を訴えることは三井鉱山の古傷を暴くことでもある。托鉢の道中、笠に石を投げつけられ穴があくなどの嫌がらせや妨害脅迫も受けた。

托鉢の途中、嫌がらせで石を投げつけられ穴のあいた傘

 ところが碑建立の同じ年、日中の国交が回復すると「先見の明があった」と今度は誉められた。時勢が変わると物の見方、世間の評価はこんなに変わる物かとあきれもした。

 72年には厚生省援護局を訪れ、犠牲者の名簿公開を要請した。中国人に関しては他に公開しないという条件で、各地の中国人死亡者名簿を受取った。名簿は供養のために碑に埋葬した。一方、朝鮮人名簿は手渡されなかった。しかし碑文には「強制労働を強いられた朝鮮人は、苛酷な労働と差別待遇を受け労苦の果て望郷の念たちがたく、異郷の地に尊き人命を犠牲にされた。多くの殉難者に対し、深甚なる哀悼の意を表すると共に、斯かる不祥事の二度なきを誓願し、永遠に供養の真を捧げんが為、不二之塔建立を発願せり。…」と刻んだ。

 「真実を語り伝えてこそ歴史といえる。日本は戦後処理の中でなぜ経済援助よりも虐殺された民間人に対する十分な償いをさせてくれと言わなかったのか。供養は継続していくことが冥福を祈ること、再び繰り返させないことにつながる」。碑を建てたからと満足してはならないと語った。

 今年2月、ソウルで朝鮮人強制連行真相調査団がこれまで収集した41万人分の名簿が公開(「民族正気をうち立てる国会議員の会」主催)された。今後、南北朝鮮そして真相調査団で日本各地に放置されたままの強制連行犠牲者と遺骨の調査を行っていく事が約束された。私はこれまで「炭坑節」を聞き三池炭鉱の同胞の犠牲を連想したことがあっただろうか、と自責の念に駆られた。同時に32年間も供養を続けて来られた住職に頭が下った。

 しかし、これらのことは一個人や民間団体によってのみ行われるのではなく、一日も早く日本政府が責任を持って、犠牲者調査−遺骨発掘−遺族に返還−追悼を行うべきである。

 「朝鮮学校生徒への暴行事件は嘆かわしい。生徒には何の罪もない。まさに『坊主憎ければ袈裟まで憎い』とはこのこと。日本人のお粗末さの表れだ。仏教と儒教は同じ流れ、中国、朝鮮を通じて日本に渡ってきた。お互いを尊重する事が大切だ。私はどこの誰など肩書きにこだわらない。赤星善弘だけで良いのです」との言葉に、宗派なども聞かねばと気にかけていた自分の浅はかさを思い知り「目から鱗」の思いがした。(山口県朝鮮人強制連行真相調査団朝鮮人側事務局長、金静媛)

[朝鮮新報 2003.4.30]