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突貫工事、牛馬同然の扱い

 戦争末期の1944年1月に建設発表があった旧陸軍の林飛行場(香川県高松市)。45年1月に作成された「知事引継書」によると、朝鮮人565人が「集団就労」とある。以下は、香川調査団が同市の協力を得て、91年に実施した聞き取り調査((日本人8人と朝鮮人1人)の内容などをもとにまとめたものである。

 なお飛行場建設は、44年6月に建設予定地内の物件が取り除かれ、8月には滑走路がほぼ完成したことから、突貫工事で進められたことは間違いない。

現場まで6キロ徒歩

 飛行場建設に際しては、3回の大規模な朝鮮人強制連行があったと思われる。

 1回は総員280人、全員が男性で、年齢は17〜18歳から50代まで。44年7月、建設現場に姿を見せた。

 「彼らは日本語をまったく理解せず、朝鮮服を着ていた。彼らが朝鮮半島から直接連れてこられたことはまちがいない」

 そう語る日本人は、だから「徴兵されずにすんだ」と述べながら、彼らは「仏生山にあった元競馬場の施設の一角に収容された。文字通り牛馬同然の扱いだった。食事は米3分、麦7分のもので、おかずといえば菜の葉の漬物が主だった。毎朝、約6キロの道を歩いて飛行場に通った」という。

 2回目の大規模な朝鮮人労働者の移入は、45年2月ごろ。岩国飛行場に強制連行された朝鮮人が、すでにいた朝鮮人と交代させられた。岩国で飛行場周辺の排水の溝作りをしていた彼らは、林飛行場でも溝作りに従事させられていた。それに動員された日本の住民や学生たちも、45年に来た朝鮮人はもっぱら溝作りをしていたと証言する。

在日も集団動員

 残りの1回は、在日朝鮮人の動員。

 「香川新報」によると、第1陣として44年7月27日から50人の協和会員が出勤しているとある。

 また、日本に来ていた朝鮮人が家族で集団的に飛行場近くのバラックに住み、建設に動員されたとの証言もある。

 林飛行場は戦後、高松空港となったが、新高松空港の完成とともに閉鎖され、今は各種のパークとなっている。(「朝鮮人強制連行調査の記録―中国編」より)

[朝鮮新報 2003.5.30]