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食べ物、賃金は「すずめの涙」

 19歳の時の1942年5月、間組の「募集」に応じて日本へ来た。

 仕事場は、青森県十和田湖の焼山ダム工事で、朝8時から夕方6時までの10時間労働だった。食べる物はだんだん悪くなり、ほとんど豆カス。

 二棟あってそれぞれ20人ぐらいいた。監視役は日本人で、スコップやツルハシで朝鮮人を殴っていた。自分もケンカで仕返ししたら、スコップの柄が折れるほど殴られた。

 43年6月、静岡の大井川久野脇発電所に飯場ごと移動した。

 その後は東京深川や群馬の水上ダムで働いたし、横浜の日吉台の軍事地下壕(連合艦隊司令部)や横須賀の軍用地下壕掘りもした。

 44年2月頃から5、6月頃までは、今の米海軍横須賀基地、当時の帝国海軍横須賀鎮守府の地下壕掘りをした。労賃は1円50〜60銭。食べ物も賃金も「すずめの涙」だった。(金仁圭さん、1923年4月24日生まれ、慶尚北道出身、神奈川県横須賀市在住)(「朝鮮人強制連行調査の記録―関東編1」より)

 あれは13歳の頃だったと思う。日本人が人手を探しに村にやってきて、「日本に行けば熊手でかき集められるぐらいお金を儲けられる」「日本に行けば白米のご飯が腹一杯食べられる」と言いふらした。

 生活苦から私はほかの娘たちとともに関釜連絡船に乗せられ、下関に着き、そこから連れて行かれた先は兵庫県西脇町の織物工場だった。

 そこには朝鮮人女工もいれば、日本人女工もいた。朝鮮人は半分以上いたと思う。同じ女工であっても、朝鮮人と日本人は宿舎も食事も別々で、賃金も違っており、朝鮮人女工に対する差別はひどかった。

 毎日毎日、朝早く工場に出かけて10〜12時間、時にはそれ以上、働かされた。10代の幼い娘にとって仕事はつらく、父母と故郷が恋しくて毎日のように泣いた。

 日本に行けばお金が儲かり、腹一杯ご飯が食べられるといったことは全部ウソだった。

 日本人にだまされて日本に来て64年という歳月が過ぎた。その間、愛するアボジ、オモニは私と会うこともなくこの世を去ってしまった。私も言葉で表せないほどつらかったが、幼い娘を日本へ連れていかれたまま死んでいったアボジ、オモニのつらさは私の何十倍、何百倍だったに違いない。(姜守連さん、1921年10月14日生まれ、2002年4月死去、慶尚南道出身、千葉県船橋市)(「朝鮮人強制連行調査の記録―関東編1」より)

[朝鮮新報 2003.6.5]