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「日本鋼管は『命の交換』」

工業地帯の一角に

 JR川崎駅から南に、東京湾に向かって車で15分ほど走ると、工場群が並びはじめ、トラック、重機の交通量が増えてくる。東京―横浜間の京浜工業地帯の要として機能している地域である。戦前、これらの工場建設、拡張工事には多くの同胞が携わった。戦時中には、朝鮮半島から強制連行されてきた同胞たちが、「技能工」として従事させられた。42年末現在、工業地帯の臨港地区だけでも約6500人の同胞がいた。

 当時、強制連行された同胞たちの間で歌われた歌がある。中でも日本鋼管は『命の交換』と歌われていた。工場内の事故による死傷者が毎日のように続出し、栄養不良で死んだ人も多かったからだ。

数万人が従事

 日本鋼管は、川崎市に川崎、扇町の両工場があり、鶴見区には鶴見工場などがあった。

 「日本鋼管株式会社40年史」によると、43年末現在、川崎の工場には1635人の強制連行者がいたという。連行はその後もひっきりなしに行われ、日本の敗戦時には数万人にも達していたと言われる。

 また鶴見製鉄所には、42年7月から43年9月までに7回にわたって1092人が連行されてきたという(「行政査察説明資料 労務班 鶴見製鉄所 日本鋼管株式会社」)。

厳しい管理体制

 労務管理の特徴は、多くの日本人指導員が朝鮮人を常に管理していたことだ。

 43年12月現在、鶴見製鉄所の朝鮮人訓練工は、4つの宿舎に781人が収容されていた。ここには舎監1人以上以外に、指導員が28人もいた(前出)。

 中央協和会の要綱では、担任指導員は朝鮮人訓練生40人について1人を配置することになっている。

 つまり日本鋼管は中央協和会が提示した基準より多くの指導員、朝鮮人27.9人に1人を配置していたことになる。

 労働時間は2交替制で12時間。ある労働者は、最初はホイストクレーンを運転して転炉に生石炭を入れる作業をした。下から熱風が吹き上がってきて、下手をすれば死んでしまいかねない作業で、日本人はあまりしない仕事だったと証言している。(基)

[朝鮮新報 2003.6.12]