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連行のあげく被爆

 1945年8月6日午前8時15分、広島に原爆が投下され、12月末までに約14万人が死亡(推定)した。当時、広島市内に朝鮮人は5万3000人いた(推定)が、うち4万8000人が被爆し、3万人が1年以内に死亡(行方不明者含む)した。79年、広島・長崎朝鮮人被爆者実態調査団(強制連行真相調査団の前身)が行った広島に関する報告の部分を紹介する。

水をくれ!

 調査対象は40歳以上の52人(男性31人、女性21人)。

 被爆後、犠牲者、行方不明者が続出する中、同胞は雇用主の日本人探しに動員された、日本人に助けられたという話もある。しかし、「アイゴ! ムルタルラ」(水をくれ!)と叫んでいる朝鮮人4人がひどい火傷のまま放置されていた(55歳の女性)、まわりに日本人が1人もいないのは朝鮮人だから放っておかれたのだなと思って怒りが込み上げてきた(73歳の男性)という証言があったことにも注目しなければならない。

手帳もらえず

 67歳の男性は「炭鉱夫の募集で来日し、強制疎開のための住宅取り壊し中に被爆した。知人は14〜15人が行方不明になった。被爆の年の秋、多量の髪が抜けた。現在は心臓が悪く、たんや咳が出て困っている」と言い、58歳の男性は「徴用で来日し、県の堤防工事中、命令で県庁の跡片付のため市内に入り被爆した」と語る。

 また50歳の女性は「父は被爆1カ月後に原爆症で死んだ。原爆で両親を失った日本人の子どもには手当てが出ると聞いたので、広島市役所に何度もかけ合ったが、『朝鮮人はダメだ』といわれた」、42歳の男性は「直接被爆だが、朝鮮人の証人はダメ、日本人でなければならないと言われ、面倒くさくなり被爆手帳の申請はしなくなった。書類の書き方もわからなかった」と話す。さらに57歳の女性は「被爆者臨時収容所となった会社の寮で火葬される寸前に、探しにきた夫に発見され助かった。すぐに入院したが、私以外の患者は全員が死んだ」と言う。

 2001年、当時の小渕首相は朝鮮人被爆者に対する責任を認めて調査団を朝鮮に派遣。1353人が認定を受けたが、その後進展はない。南には不十分であるものの、91年に治療基金として40億円を提供した。被爆者問題も、過去ではなく現在の問題として解決されなければならない。(羅基哲記者)

[朝鮮新報 2003.6.27]