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強制連行被害者、遺族、日本政府への怒り新たに

 「お金がほしいんじゃない。ただ謝ってほしいだけ。私の青春を返して」。日本軍性奴隷被害者の一人、黄錦周ハルモニ(81)は何度も繰り返し語った。2月28日から3月4日までソウルの国会議員会館で初めて行われた日帝による強制連行者41万人分の名簿展示会は、被害者、遺族らが日本に対する怒りを新たにする場になった。

「青春を返して」

「青春を返して」。日本政府への怒りを口にする黄錦周さん

 黄さんが「従軍慰安婦」として連行されたのは1941年、20歳の時だ。軍需工場に行けば大金を得られると日本人にだまされ、50余人の女性と共に連れていかれた。咸興(咸鏡南道)からさらに北へ。着いたのは日本軍部隊の駐屯地だった。翌日から将校の相手をさせられ、45年まで日に30〜40人の相手をさせられた。

 黄さんは3日、国会議員会館内の会議室で被害者、支援者らが開いた集会に参加するため、名簿展示会場を訪れていた。名簿の中には「朝鮮人慰安婦」147人分もあった(プライバシーを考慮し実名、出身地は隠し公開)。

 「私立学校4年の時、卒業を40日あまり残して連行された。私は自分の青春を返してほしいだけ」「早く謝罪をしてほしい。日本から学生らが話しを聞きに来るが、彼らは決まって涙を流し『日本が犯した過去を許してほしい』という。友好の未来を築くためにも、日本は早く私たちに謝るべきではないか」

 元「慰安婦」のハルモニらが日本大使館前で毎週行っている「水曜デモ」もすでに11年目を迎える。「日本政府は私たちが死ぬのを待っているのか。謝罪を勝ち取るまで絶対に死ねない」。

浮島丸生存者も

自分の名前があるのか、必死で名簿を見つめる権判柱さん

 解放直後の45年8月、青森県の大湊海軍施設部で強制労働を強いられた朝鮮人徴用工を乗せた船が京都・舞鶴港で謎の爆破を遂げた浮島丸事件。その生存者の一人、権判柱さん(75)は、テレビのニュースを見てわざわざ故郷の全羅北道からやってきた。自分の名前がないか調べるためだった。

 関釜連絡船に乗せられ、青森を経て下北郡大湊の海軍施設部で働かされた。解放後、浮島丸に乗って帰ることになり、事件に遭遇した。

 「あれは故意に爆破させたんだ。私は軍用ボートに乗って脱出し、そのボートもだめになると最後は泳いで岸にたどり着いた。同郷の者は9人のうち3人が生き残った」

 「浮島丸死亡者」の名簿を見ながら、権さんはため息をついた。「アイゴ、一緒に行った友人の名前がある。当時を思い出すとやるせない」。

 権さん自身は自分の名前を見つけることができなかった。

寂しく逝った兄

 会場に設置されたソファに座り、大粒の涙を流し続ける老婦人がいた。金金子さん(71)。20歳の時に連行され、生きては帰らなかった兄、金海成さんの名前をみつけたのだ。

 解放後、学校で勉強している時に校内放送で兄の死を知った。遺骨は戻ってきたが、名簿は見つからなかった。

 「異郷で一人寂しく亡くなったと思うと、また悲しみが込み上げてくる。姉も亡くなり、兄妹3人の中で残るのは私だけ。でも兄の名前が見つかり感無量。遺族として感謝の気持ちでいっぱい」。金さんはハンカチで目頭を抑えながらこう話した。

 45年3月11日、祖父が東京で亡くなったことを確認したのはソウルに住む全鍾燮さん。この日は東京大空襲の次の日にあたることから、多分爆死したものと推測される。

 「徴用で連行され亡くなったという話は聞いていたが、その日にちまでは知ることができなかった。これからは亡くなった日に祭祀(チェサ)をしたい。父も亡くなったので、長孫(チャンソン)として任務を果たそうと思う」

[朝鮮新報 2003.3.8]