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〈開城探訪記−下〉 崩れる分断の壁

感慨ひとしお

 「郡の名前がなくなるのは寂しいが、統一が近づいてきたということなので、うれしい気持ちで働いている」

 板門郡人民委員会のハン・ジェドさん(51)は、庁舎に一人残り仕事の整理をしていた。彼は行政部長として、区域再編にともなう人員配置を処理する一方、板門郡の歴史資料を整理する仕事を受け持っている。

 これまで1市3郡だった開城直轄市は、工業地区指定にともない1市(開城市)2郡(長豊郡、開豊郡)に再編成された。

 「1953年1月17日から、板門店会議場がある郡ということで板門郡となった。言い換えれば分断の現実と深い関係を持った地名といえる。鉄道と道路が連結され、北南が工業地区を建設するという時期に、板門郡の名前がなくなる。歴史はこうして進むのかと感慨深い」とハンさんは語った。

 板門郡の人々はこれまで分断の現実と向き合って暮らしてきた。北と南に分かれて暮らす家族も多い。板門店里の農民たちは、非武装地帯で農業を営んでいる。

「写真は開城で」

 シン・ヒョンムンさん(71)も、分断を体験してきた人々の1人。開城市検察所に長年務めてきた彼の故郷は忠清南道で、朝鮮戦争の渦中に家族と生き別れになった。シンさんは第2回離散家族、親せき訪問団の一員として、2000年11月にソウルを訪問、兄弟との再会を果たした。

道路連結工事が進む板門郡平和里

 「私たちには6.15共同宣言がある。また離ればなれになるが、決して永遠の別れではない」

 シンさんは、再会した兄弟たちに向かって何度も言った。

 「帰りの飛行機に乗ったとたん、寂しさがこみ上げてきた。会えなかったときはなんとも思わなかったのに、一度会ったらまた会いたいという気持ちが強くなる」

 ソウルから帰ってきた彼は、共同宣言の履行と関連した事業により多くの関心を抱くようになった。開城工業地区法が発表された時には、条項一つひとつを何度も読み込んだ。非武装地帯で鉄道、道路連結工事が始まったとのニュースを耳にした時には、自転車で現場に赴き直接、確認したりもした。

 開城工業地区事業が軌道に乗れば、南の市民の開城観光も実現するという。そうなればシンさんも、開城で兄弟たちとまた会うことができる。

 ソウルで兄弟と再会した際、シンさんは兄の顔を見分けることができなかった。兄はその間の写真をシンさんに見せながら、半世紀という時間の空白を埋めた。シンさんら兄弟は、2泊3日の間に数枚の記念写真を撮った。初日と2日目の写真は受け取ったが、最後の日の写真はまだもらっていない。

 「その写真は開城でもらえるでしょう」

「礎石作りを」

王建の32代目子孫のワン・ロクチンさん

 開城農村建物建設商社のワン・ロクチン社長(56)は、歴史上初の統一国家・高麗を築いた太祖・王建の32代目の子孫にあたる。

 「高麗の首都であり分断の象徴でもある開城に、民族経済発展のための工業地区が建設される意義は大きい。今後開城で起こることが統一への礎石となるだろう」

 分断の壁を乗り越えて実現される開城工業地区構想は、6.15共同宣言の生活力を見せつける事例といえる。北と南で連結工事が行われている西海線鉄道と道路も、開城工業地区まで延びる。

 高麗成均館で化学を専攻する息子のキョンチョルさん(26)とワンさんの会話も、最近は工業地区に関することで持ちきりだそうだ。

 「太祖・王建と言えば、米国人は知らなくても北と南の人間なら誰もが知っている。血筋も文化も一つであるわが民族が力を合わせて、こんにちの試練を乗り越えなければ」

 民族経済発展の遠大な設計図に、ワンさんも自らの夢を膨らませている。(平壌発=金志永記者)

[朝鮮新報 2003.3.28]