植民地時代、日本が朝鮮半島に作ったハンセン病療養所、全羅南道小鹿島病院を訪ねて(上) |
ハンセン病患者の苦しみは今なお、朝鮮半島にも残っている。朝鮮を植民地支配した日本は国内同様、全羅南道小鹿島に各地から患者を強制隔離し、過酷な生活を強いた。現在も740人が暮らす南で唯一のハンセン病療養所、小鹿島病院を訪れた四国学院大学教員の金永子氏が寄稿してくれた。 8月初旬に韓国で唯一の国立ハンセン病療養所である小鹿島病院を訪ねた。在日朝鮮人ハンセン病歴者の問題に関心のある者として、一度は訪ねてみたい場所であった。 そんな折、滝尾英二さん(朝鮮ハンセン病史の研究者)からチャムギル会(小鹿島病院や福祉施設等でのボランティア活動や教育活動などを行っている団体)の創立20周年シンポジウムが小鹿島病院であるから一緒に行かないかとのお誘いがあり、飛びついたのである。この旅が、植民地朝鮮において日帝が行ったハンセン病患者に対する残虐な行為を問う裁判の大きなステップになることをつゆ知らないまま。 現在は740人が 全羅南道高興郡道陽邑小鹿1番地。小鹿島病院の住所である。全羅南道の南端、高興半島の鹿洞港から約600キロメートル離れたところに位置する温和な気候の島(総面積約460平方メートル)。島の名前は、空から見た島の形が小鹿の姿に似ていることから付けられたという。 港からフェリーに乗り出発したかと思うと、もう到着。ガリバーならひとまたぎで島に行けるのではないかと想像してしまう程に近い。日本のハンセン病療養所長島愛生園と邑久光明園のある長島に人間回復の橋、長島大橋を掛けたように、この島にも掛けられるのではないかと考えたりしていると、なんと、現在橋を掛ける工事をしているところだと言う。ただ残念なことに、小鹿島病院の院生(病院で生活する人をこう呼んでいる)のためではなく、観光開発のためだという。 現在、小鹿島病院には 約740人の方々が暮らしており、平均年齢は76歳である。 2001年末現在の統計によると、韓国には登録ハンセン病患者(患者という表現は正確ではないが原文のまま使用)が17746人おり、そのうち17291人は病歴者、つまり治癒している者で、残りの2.6%に当る455人が陽性患者である。登録ハンセン病患者のうち9528人が在宅、6369人が定着農園、799人(うち病歴者787人、陽性患者12人)が国立小鹿島病院、1050人がその他の施設で生活をしており、施設で生活している人たちが日本に比べて非常に少ない。これは、日本が1996年までらい予防法による隔離政策を続けたのに対し、韓国では、63年に伝染病予防法を改正し、隔離主義から在宅治療に転換したことによるところが大きい。 小鹿島病院には6つの部落(マウル)があり、そのうちのひとつ(夫婦で生活する人たちのマウル)で何人かの方と話をさせていただいた。とても気さくに話をしてくださるので、「故郷はどこですか?」とお決まりの質問をしてしまった。その瞬間、空気が凍ったようだった。笑顔が消え、なんの返答もなかった。私は心の中で「しまった」と叫んでいた。日本同様、韓国でもまだまだハンセン病に対する偏見や差別が強く、患者の子どもだというだけで登校拒否されたり結婚話がつぶれたり、本人のみかその家族にまで被害が及ぶことは稀ではない。 医療が不十分 小鹿島病院では、主食(一人当り一日米470グラム、麦30グラム)と副食、運動靴や下着、洗剤などの生活用品が支給されるのと、院生の方々はお小遣いという表現をされているが、福祉手当として月一人当り、65歳未満の方は35000ウォン(厚生費30000ウォン、クムソン福祉金5000ウォン)、65歳から79歳までの方は52200ウォン(厚生費5000ウォン、交通手当7200ウォン、敬老年金40000ウォン)、80歳以上の方は62200ウォン(厚生費5000ウォン、交通手当7200ウォン、敬老年金50000ウォン)が支給される(2001年末現在)。仕送りなどの収入がない場合、基本的にはこれだけで生活しなければならない。訪問させていただいたご夫婦は、質素な生活をなさっていた。生活上の不満をお尋ねしたところ、医療が不十分であること、小遣いが少ないことをあげておられた。また、日本の療養所と異なり、自炊が原則のようである。建物の外には、にんにくが干してあったり、キムチ壷がたくさん並べてあって、生活のにおいはするものの、からだの不自由な方はどうするのか気掛かりになった。 日本より過酷 日本国内でおこなわれたハンセン病患者への強制隔離政策は、植民地や傀儡国家、占領地でも同様に実施された。日本植民地支配下の朝鮮におけるハンセン病政策は、日本国内におけるそれよりも過酷なものだったと言われる。1916年2月24日、朝鮮総督府は現在の小鹿島病院の前身に当る小鹿島慈恵医院(定員100人)を開設、朝鮮各地からハンセン病患者を収容した。34年には小鹿島慈恵医院は道立から国立に、そして小鹿島更生園と改称され、35年4月20日に「朝鮮癩予防令」を公布することによって、ハンセン病患者の強制隔離をさらに強化していった。開設当初、約40人だった。 患者数は次第に増加し、患者による過酷な拡張工事が数次にわたって行われ、40年には6136人を超えるほどにふくれ上がった。 患者たちの生活は、療養や治療とは程遠いもので、むしろ強制労働のために病気を悪化させたり、失明したり手足を失うなど身体を悪くした。過酷な労働と栄養不足のために死亡したり、絶望して自殺する人も後を絶たなかった。あるハラボジは、植民地時代、明け方早くから日が暮れるまでレンガ作りやかます作りをさせられて、本当に辛かったと話しておられた。 逃亡を試みて捕まったものや「反抗的な」患者は所内に作られた監禁室に入れられ、多数の患者が死んでいった。運良く出獄できても断種されたうえ、厳しい監視が続いたという。日本の療養所でも結婚の条件として断種を強制したが、朝鮮ではそれのみにとどまらず見せしめの断種を行ったのである。あるハラボジは、一番辛かったことは何かという質問に対して、「生きていること自体が辛かった」と答えられたという。(金永子、四国学院大学教員、在日同胞福祉連絡会副代表) [朝鮮新報 2003.9.16] |