〈ロシア沿海州のコリョサラム〉 平壌芸術団、東アジアのコリアンと交流 |
旧ソ連には現在、40万人以上のコリアンが住むといわれる。19世紀末、朝鮮半島北部に起きた飢きんを逃れ、沿海州に住むようになったのが始まりで、その歴史は140年。自らをコリョサラム(高麗人)という彼らの多くが中央アジアのカザフスタン、ウズベキスタンに住むのは、日本の植民地時代だった1937年、当時の政府が強制移住させたからだ。その彼らがソ連崩壊からこの10年の間、沿海州へ再移住し、同胞コミュニティーの再生に取り組んでいる。その数は現在、4万人に上る。コリョサラム同士のきずなを深めようと今月5日、沿海州の港町ナホトカで「第3回高麗人文化の日祝祭」(主催=ナホトカ高麗人文化自治会)が開かれ、同地域のコリョサラム団体、そして北南朝鮮、日本、中国など東アジアのコリアンが一堂に会した。朝鮮民主主義人民共和国からは平壌芸術団が参加し、4日のナホトカを皮切りに、在ロ同胞が住む5都市で巡回公演を行った。(張慧純記者) 歴史の渦に翻弄 「若いとき、カヤグムという言葉を聞いたことはあったが、今日、その旋律を初めて聴いた。祖国と離れて暮らす私たちが失った文化を再生させてくれた」。リ・ウラジミル・ヤコブさん(57)は、平壌芸術団の歌や踊り、民族楽器の響きに触れた後、感無量とばかりに語った。
リさんは、芸術団の3回目の公演地アルチョム市から次の公演地ウスリスク市まで同行し、バスの中で団員たちから「アリラン」を一生懸命に習っていた。祖父母の代にロシアに移り住み、強制移住先のウズベキスタンから沿海州に戻ってきたリさんは現在、テレビ局の仕事をしている。柔和な表情、やさしい語り口が印象的なリさんが、まだ見ぬ故郷の歌を口ずさむ姿はまさに少年のようだった。 沿海州には、1937年まで380の民族学校があった。新聞と雑誌があわせて10数種発行され、民族劇団など文化を普及する専門団体も抱えるほど豊かな朝鮮人社会が築かれていた。勤勉な彼らは農業に精を出し、沿海州の土地をよみがえらせたが、汗の結晶であったその生活は強制移住によって水泡に帰してしまった。 歴史の渦に翻ろうされたコリョサラム。リさん一人を見ても、彼が祖国の文化に触れるまで長い時間が必要だった。公演後の食事会でも、何かに取り付かれたようにカヤグムから目を離さず、奏者のリ・グムスクさん(34)から熱心に弾き方を習っていたリさん。別れを惜しみながら芸術団に思いを託した。「よりよい創作活動を願っています」。 チョゴリに目輝く 平壌芸術団の演目中、行く先々で人気だったのが民謡だった。植民地時代に歌われた「アリランコゲ」「チルレコッ」を最初から最後まで口ずさみ、オッケチュムならぬ「コサックダンス」でリズムを取る老人。そしてウリマルを話せなくとも、チョゴリに身を包み、本場の朝鮮舞踊に「初めて祖国のダンスを見た」と目を輝かせる少女たち。民族芸術に心躍らせるコリョサラムの姿がそこにあった。 ウスリスク市には、10代の少女らに朝鮮舞踊を教える「アリラン歌舞団」があり、平壌から専門家が出向いて教えている。ウラジオストク市郊外のアルチョム市には、6年前に七星舞踊団が結成されたが、これも朝鮮が講師を派遣した。朝鮮は近年在ロ同胞に対する民族文化を教える取り組みに力を入れており、本国での研修も行っているが、コリョサラムのニーズはまだまだ満たされていない。 在ロ同胞の子どもたちに民族の言葉や文化を教えようと、有志とともにパルチザンスク市に文化センターを設立中のパク・ウラジミルさんは、「母国がなくてどんなにさびしかったか。どこに住もうとも私たちの根っこはひとつ。子どもたちのためにも、朝鮮から教員を派遣してほしい」と切願していた。 理解促す潤滑油
平壌芸術団が訪ロ中の2〜3日、ダリキン沿海辺境行政長官が平壌を訪問し、朝鮮と沿海辺境間の林業、農業、水産建設、採掘分野での協力問題を討議した。00年にはプーチン大統領が朝鮮を訪問、01、02年には金正日総書記がロシアを訪問するなど、朝ロは絆を深めつつある。 アルチョム市での公演観客は、副市長含め半数がロシア人だったが、感想を聞いてみると「朝鮮の芸術を初めて見た」とのコメントが大多数だった。文化を通じた交流は、コリョサラムへの理解を促す潤滑油になっていくのだろう。 沿海州で、在ロ同胞のコミュニティー再生の動きを促しているのは、ソ連崩壊後、ロシア連邦最高会議が強制移住の不法性を認め、民族的な利益や権利を守ることを約束したことだ。
また、カザフスタン、ウズベキスタンなど旧ソ連から独立を果たした国々がそれまでの公用語だったロシア語を自民族の民族語に変えたり、自国民優先の政策をとったことで、他の少数民族は言語の負担を抱えるようになった。それは言葉のハンディを越え、経済、社会的な不平等を産み落としている。 現在、沿海州には大別して、19世紀後半に移ってきた朝鮮半島北部出身の同胞、日本の植民地時代にサハリンに強制連行され、住み着いたのちに移住した人、解放後、職を得るために朝鮮から働きに来た人がいるが、90年に旧ソ連と国交を結んだ南からの企業進出も進んでいる。 旧ソ連の国内情勢が大きく変わるなか、コリョサラムのコミュニティー再生の希望になっているのが、6.15北南共同宣言に象徴される本国の統一の動きだ。沿海州の中心都市・ウラジオストクはシベリア鉄道の起点。コリョサラムは、北南をつなぐ京義線がここ沿海州につながる日を夢見ている。 芸術の力を再認識
コリョサラム、ロシア人ら3000人が集まった「高麗人文化の日祝祭」では、北南、ロシア、日本、中国の芸術団とロシアの様々な民族が参加したが、統一旗をはためかせ、アリランをともに歌う北南、海外のコリアンの姿はコリョサラムに統一の息吹を運んだ。日本からは民族楽器重奏団「ミナク」、大阪の姜輝鮮朝鮮舞踊研究所舞踊団「ナルセ」のメンバーが参加し、公演を披露した。植民地、冷戦を生き抜いたコリアンと出会いたい、主催者側の思いが伝わり国境を越えた出会いの場が生まれたのだ。 姜輝鮮さんは、「自分たちが歩んできた歴史を捨てず、これからも守って伝えていこうとするコリョサラムの生き様に感動を覚えた」と話す。99年にウズベキスタンで公演したことがある姜さんは、「どこに住んでも自分が何人かを見失ったらだめだ。自分たちの芸術をもってロシアに来られたことが意義深かった」と振り返る。 「在ロ同胞の悲しい歴史を目の当たりにしながら、祖国の地に統一を、東アジアに平和が訪れるようなメッセージを送り続けたいと思った。文化を通じた交流が大事だと改めて感じた」。ミナクの康明姫さんは芸術が持つ力を再認識させられたという。 祖国への痛切な思い 祝祭が終わり、宿舎に向かうバスを待つ日本からの一行を懐かしむ人がいた。20年前にサハリンから沿海州に移り住んだというコ・オクスンさん(76)。サハリンで育ち、二男三女を育て上げた。植民地時代に日本学校に通ったコさんは日本語が懐かしいと、朝鮮語と日本語を織り交ぜながらタヒャンサリを語った。植民地時代に朝鮮人、朝鮮人とさげすまれた子どもたちが朝鮮語を話せることが誇りだと語るコさんは、日本から来た20代の踊り子たちのウリマルに終始笑みをたたえていた。沿海州では強制移住の際に民族学校がすべて閉鎖されてしまったことから、大多数の若い世代はウリマルを話せない。 平壌芸術団の舞踊指導員パク・リョンハクさん(61)は、踊り手だった1967年、ウズベキスタンに公演に出向いたことがある。「オモニと生き別れになった女性の話が忘れられません。そのオモニの顔を一目見ようと、毎月十五夜に洗面器に鏡を入れ、銀の指輪を落としたといいます。他郷でどんなに母親が恋しかったことか。コリョサラムが祖国を思う気持ちは本当に痛切だと思う」。 痛みと希望を分かち合う様々なコリアンの姿は、悲運を経ながらも、再生へと大きく歩き出したコリョサラムを強く後押ししていた。 [朝鮮新報 2003.10.30] |