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東アジア史の視点から〈5〉−聖徳太子が愛した地

南河内「近つ飛鳥」−下

 奈良県明日香村の明日香寺は、588年に工事を開始した日本最初の本格的な僧寺であり、飛鳥に君臨した百済系の豪族・蘇我氏の氏寺である。他方、日本最初の官立の寺院は593年、聖徳太子によって建立された大阪市(難波)の天王寺区の四天王寺である。朝鮮半島からの先進文化の大きな道の一つは、波濤を越えて朝鮮海峡から玄界灘を越えて瀬戸内海航路を取って難波の港に入った。

 難波の海港に向かって建立された四天王寺は、朝鮮半島からの文化をになって渡来した人々を迎え入れる大きな拠点であった。難波から飛鳥の都に行く道は石川をさかのぼって行くか、陸路をとって近つ飛鳥(河内)から竹之内街道―二上山を越えて行ったのである。

 広く知られているのが四天王寺様式と知られている伽藍配置である。中門・五重の塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ様式である。このように寺院の伽藍配置が一直線に並ぶ様式は百済の仏教寺院で数多く見られる。538年、百済は高句麗の圧力から逃れて再興を期して都を扶餘(忠清南道)に遷した。この後期百済の都・扶餘には定林寺や軍守里廃寺跡など百済様式の伽藍を持つ寺院が多い。百済や高句麗と深い関係を持つ聖徳太子は、奈良県明日香村の橘寺で生まれたという言い伝えを持つが、橘寺は百済特有の中門・塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ伽藍配置であるのは興味深い。

 ところで聖徳太子はナゾと誇張に包まれた人物であるが、その太子は推古天皇の摂政として法隆寺を建立した斑鳩から飛鳥の宮廷まで、愛馬の黒駒にのって毎日通ったという。ここで考えてみたいことがある。斑鳩や飛鳥の地で活動し、精魂を込め、献身的に飛鳥時代とその文化を築いた聖徳太子が病で薨じたとき、なぜ磯長谷(現在の太子町)に葬られたのであろうか。縁の深い斑鳩や飛鳥の地ではなく、なぜに二上山を越えて近つ飛鳥に接する磯長の地に眠るのだろうか。

 618年、太子みずから永遠に眠る奥津城としてこの地を選び、墓所を築いた。その4年後、太子の母穴穂部間人皇女が死去し、その2カ月後、愛妃の膳大郎女と太子が相次いで死去した。こうして磯長廟には3人が葬られている。その前に建つ叡福寺は太子の冥福を祈り、その霊を守護するために建立された。

 一須賀古墳群を整備保存している近つ飛鳥風土記の丘の展望台に立てば、磯長谷の秘密は理解できるだろう。一須賀古墳群は6世紀前半に築かれた百済から渡来した家族集団の横穴式石室の集団墓である。

 聖徳太子をはじめとする百済系のリーダーたちは、飛鳥の都ではなく二上山を越えて玉手山古墳群や古市古墳群や一須賀古墳など渡来した人たちの魂が憩う近つ飛鳥の地に眠ることを願ったのである。一須賀古墳群の北東方・磯長地方は、いわば王家の谷である。日本古代国家と古代文化を準備した時代の百済系の皇陵が集中している。二上山を越えて河内に向かっていけば伝敏達天皇陵、推古天皇陵、用明天皇陵、聖徳太子廟が点在する。

 敏達天皇陵とされる陵墓には敏達とその生母とされる皇后石姫、推古天皇陵には推古と竹田皇子が眠っているという。推古天皇は欽明天皇と百済系の豪族・蘇我稲目の娘堅塩姫との子で敏達の皇后となって後に日本最初の女帝となった炊屋姫である。推古天皇の時代は摂政の聖徳太子と組んだ輝かしい飛鳥時代であった。用明天皇は欽明天皇の第4皇子で聖徳太子の父とされており、母は蘇我稲目の娘の堅塩姫とされている。その陵墓は天皇陵としては最初の方形の墳墓で高句麗の帝王陵の伝統的な築造の影響を受けていると指摘されている。これらの百済系の陵墓と朝鮮からの渡来の墳墓群に立ちこめる濃密な朝鮮文化は、古くから日本最初の古代文化の炎をかかげてきた玉手山古墳群などに眠る人々とつながっている。(全浩天、考古学研究者)

[朝鮮新報 2003.1.15]