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山あいの村から農と食を考える(5)

汚れない水が美味をつくる

 すっぽりと雪にうもれた正月となった。それでも積雪は例年に比べそう多いとはいえない。が、寒さの方はすごく厳しい日が続いている。夜間は連日マイナス5度とか6度。今朝(3日)などは8度といった冷えぶりだった。牛舎のウォーターカップもこおっていた。こんなことはひと冬に3回か4回ぐらいしかないのだけれども、今朝はそんな寒さだった。

 寒い日にはこたつにはいってたべるみかんがおいしい。暮れには10キロ詰めのみかんを5箱も「お歳暮」に送っていただき、妻と2人ではとてもたべきれないと思っていたが、大晦日から元旦にかけて、東京に居る娘や山形市郊外に居る孫たち家族5人もやってきて、8人の家族が揃ったら、たちまち箱が空いてしまい、正月すぎには購入の要あり、といったところだ。たべものは沢山の人でたべるとその味が格別に高まるし、食が進む。

 いただいたみかんの産地はさまざまで、愛媛とか有田、三日目、それに静岡などなど。そしてそれには、それぞれの特徴があってうまさを競わせ、楽しませてくれる。

 さて、わが家は果樹といえば柿しかない。それも贈答出来るようなものではないので暮れには自家生産の米を何人かの人に送った。すでにだぶついているという米だから、それを届けるなんて失礼だよ、と妻はいう。が意外にもその反応がいい。半分ぐらいはお世辞かも知れないが、電話の声はとても嬉しそうに聞こえてくる。そしてその嬉しさにはどんな意味あいがあるのだろうと考えさせられる。当世お菓子や、ギフトセットなるものなどはわが家だけでなくどこの家でも、台所の片隅に積まれていてあまり喜んでもらえないが、足りる米であってもそれとは違うような喜ぶ声が聞こえてくる。

 いったいその主たる理由はなんなのだろうか。まず考えられるのは毎日たべるものであるということ。しかしそれだけでもなさそうだ。それで次に考えられるのは「私が栽培したもの」という得体がはっきりしていること。つまり安心の度合いが高いからのようである。とすれば今日多くの日本人は食に対する不安感が強いから、ということになる。そしてその次にわが家の米は食味も良好なのだと私はひそかに自負する。食味計でみてもらってもかなりの好成績が出ているからだ。

 わが家では牛を飼っているから、その堆肥はすべて田畑にいれる。正直にいってやり場がないから、入れざるを得ないというのが実際なのだが。ほかに硅酸石灰や、熔燐などの土壌改良剤は多く使うが、化学肥料なるものは殆ど入れていない。さらに多収をめざさないから、チッソ分をおさえている。それが食味計にはっきりと「良」と表れるのだ。

 昔は山あいの田んぼの米は「まずい」といわれていた。ワセの品種は概してそうだったのだろう。それが近年山間部でも栽培出来る味のいい稲の品種ができている。わが家ではアキタコマチとひとめぼれ、というのを栽培しているが、どちらも先祖には山形県の庄内で育種された「亀の屋」という品種の血が入っている。亀の屋は阿部亀松という百姓が、冷害の年に倒れた青い稲の中から一本だけ倒れずに稔っていた稲の穂をみつけて、それを掻きふやし育てたという品種である。有名なコシヒカリにもその血が入っているのだそうで、寒さに対する強さと食味のよさはみなそれである。おかげで山あいの田んぼで栽培された米も、今では平野部でとれたものと比べてけっして劣らないものとなったのだ。

 ところで最近は、水と食味の関係がとやかくいわれるようになった。平野部の水田ではほとんど最上川のような大きな川から揚水して灌水しているが山あいの田んぼでは湧水を使っている。そうした汚れない水が美味をつくる、ともいう。

 しかし、そうした自然のもつ宝、こうした山あいの村で守り続けるというのもすこぶる厳しくなっているのがこの世だ。それでも私は今年もそれを続ける。(佐藤藤三郎、農民作家)

[朝鮮新報 2003.1.17]