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〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち〉 明成王后閔氏

 19世紀末、国内外の政治に深く関わり、ついには1895年、日本の手によって殺された明成王后は朝鮮史に登場する女性の中で最も知られた人物である。

 これまで彼女に対する評価は、黄玹の「梅泉野録」などのような野史類に伝えられている伝聞記録、日清戦争以後に暗躍した日本人のジャーナリストや歴史家が残した記録、また、彼女と直接会った西洋人が残した見聞記などに依拠してきた。これらは風聞≠フ範囲を越えるものではなく、奸悪な雌鳥∞事大亡国奴≠ニいうイメージを作り上げた。

 しかし最近、南で人気を博したミュージカルや大河テレビドラマ「明成皇后」に登場する彼女は、開化の先覚者∞聡明な外交策略家≠ニ再評価されており、学界から度を越す過大評価であると批判されるほどである。

政策の対立

 明成王后は1851年9月25日、京畿道驪州で驪興閔氏・閔致禄の一人娘として生まれた。名前は紫英(または貞鎬)と伝えられているが定かではない。幼くして父を亡くしたが、ただ1人の養兄である閔升鎬が大院君(李昰応)の夫人である府大夫人閔氏の弟であった関係から、1866年、16歳の時に当時の国王・高宗(李熙)の妃に選ばれた。

 はじめは大院君の嫁として舅に尽くしてきた彼女が、次第に舅と対立するようになった原因については世子册封問題をはじめ諸説がある。しかし、20歳に成長した高宗が実父・大院君の影響から脱し、名実共に国王として国政に当たる意志を固め、妃と共に大院君に相対したと見るのが正しいものと思われる。

 大院君と高宗・王妃の関係は、1873年11月、高宗の親政(国王自ら政治を執ること)宣言を契機にして政敵関係に変わり、血生臭い争いが繰り広げられた。ただし、両者の関係を権力欲に駆られた権力争い一般に矮小化してはならない。その背後には大院君=鎖国論、高宗・王妃=開国論という政策上の違いがあったということを理解しなければならない。

聡明な資質

 もともと高宗は、大院君と大王大妃趙氏により急造された国王であったため、その政治的基盤は脆弱であった。高宗にとって王妃は唯一の理解者であった。彼女が聡明かつ強靱な意志の持ち主であったことは高宗の「御製行録」(国王が直接書いた文章)や彼女の接見を受けた西洋人の記録を見て伺い知ることができる。また、高宗にとって驪興閔氏は妻方の親族であるばかりでなく、母方の親族でもあった。彼が自らの政治的基盤をそこに求めたのは最も安全な選択であった。

 高宗は決して無能な国王ではなかった。彼は開化(近代化)政策を推し進め、「均衡外交論」に立脚して列強の勢力均衡の下で国権を保持しようとしたのである。高宗の政策決定の裏面には明成王后の助言があり、いわば2人は政治的同伴者でもあったといえよう。

 しかし、開化=日本化≠ニ認識していた当時の民衆意識や閔氏一族の腐敗、また明成王后自身による国財の流用などのため、彼女は民衆の支持を得ることはできなかった。

 明成王后に対する再評価は、これから19世紀末の政治史および外交史研究の進展によりいっそうはっきりしていくであろう。(康成銀、朝鮮大学校歴史地理学部教授)

 ※明成王后敲筰を閔妃≠ニ呼ぶようになったのは植民地時期日本人によってである。歴代の王、王后に対する呼称慣例により死後につける諡号(贈り名)である明成王后、または明成皇后と呼ぶのが正しい。

※明成王后(1851〜95) 李朝第26代の国王・高宗の妃。驪興閔氏の一族、閔致禄の娘として、京畿道驪州に生まれる。1866年、大院君の夫人閔氏の推薦で王妃となったが、宮中内外に閔氏一族の勢力を扶植し、73年には大院君を失脚させた。翌年、王子坧(のちの純宗)を産んで基盤をさらに固め、閔妃とその一族は政権の中枢を独占する。95年、日本の蛮行によって殺された。

[朝鮮新報 2003.1.27]