ソウルで開かれた高句麗文化展 |
昨年(2002年)の12月6日、ソウル市三星洞のコーエックス国際展示舘で「特別企画展 高句麗!―ピョンヤンから来た古墳壁画と遺物」と題された高句麗文化展が華やかに開催された。朝鮮民主主義人民共和国文化保存指導局と在日本朝鮮歴史考古学協会の特別後援のもとに民族和解協力国民協議会(民和協)と中央日報、ソウル放送(SBS)が共同主催した高句麗文化展には国宝を含む350余点の遺物、実物大の壁画古墳や壁画の模写が展示された。 展示館の前面広場には、鴨緑江中流にのぞむ中国吉林省集安にそびえ建つアジア最大の金石文である高さ6.34メートルの高句麗・広開土王陵碑が実物そのままの大きさで建立された。この巨大な石碑の四面に彫られた見事な隷書字体はそのままに復元され、道行くソウル市民の注目と関心をひくのに十分であった。
3階展示場正面入り口の壁面には、高句麗王冠の装飾品である日像透彫金銅装飾に美しく繊細に、そしてダイナミックに透かし彫りされた三本足のカラスと炎のように流れる流雲文がデザインされ、大きく描かれた。 開幕の式典は、高句麗文化展を象徴するかのように描かれた高句麗王家のシンボル・太陽の三本足カラスと流雲文を背景にして開会された。政府高官、言論界、学者、文化人、市民団体など各界の代表500余名が参加するなかで民和協を代表して開会の辞を述べた朴容吉女史は「心深く憧れてきた高句麗の雄大な民族の気質を21世紀のわが民族が生きる知恵としたい」と呼びかけた。この言葉は多くの人々の共通の心でもあり、言葉でもあった。 半世紀間の民族分断以来初めて高句麗の魂と心の結晶である国宝級の遺物と高句麗文化の真髄である高句麗壁画が軍事境界線を越えて南の地にもたらされるのは民族の願いであり、希望であった。このことを高句麗展直前の11月26日の中央日報は端的に次のように述べている。「高句麗は南北ともに憧れる民族の原形であり、故郷である」とともに「南と北が民族文化の共通点として数え上げるすべてのものが高句麗にある」からである。 昨年11月13日、高麗大学考古美術史学科の崔鍾鐸教授たちは降りしきる雪の中を貨物船に乗って仁川港を出発して南浦港に向かった。高句麗文化展の展示品を受け取り、確認するためであった。崔教授は降る雪を「瑞雪」として幸先のよい印として喜び、零下9度の大同江の河口の埠頭に立ったときも感激のあまり寒くはなかったという。高句麗の国宝を確認するときは感動のあまり手が震え、体が硬直してしばし動けなかったという崔教授は、20日、引き継ぎを終えて帰る船中で「引き継いだ歴史的瞬間の感慨を何度も噛みしめた」という。
このたびの高句麗文化展には、まさに門外不出≠フ宝物である「永康七年銘金堂光背」「延嘉七年銘日光三尊仏」「日像透彫金銅装飾品」「火炎文透彫金銅冠」ならびに最近発掘された江原道鉄嶺出土の鉄製および青銅騎馬模型や馬具類などが初めて展示された。これについて徐吉洙西京大学教授は「予想だにしなかった大きな驚きであった」と感嘆を隠さなかった。 盧泰敦ソウル大学教授は、烈しい盗掘と略奪によって今日まで伝えられる高句麗の遺物は数少なく貴重であることを指摘しながら「極めて質的に高い水準の国宝と新しく発掘された遺物を展示することができたのは、北側当局の並々ならぬ深い配慮によって可能になった」と語っているが、これは多くの学者、研究者たちの率直な感慨であろう。 多くの人たちが賛嘆を惜しまなかったのは、高句麗壁画古墳を所在地から切り取ってそのまま運び込んできたかのような実物そのものの大きさで精密に作られ、描かれた壁画古墳の模型であった。展示品のなかで「白眉」とされたのは安岳3号墳、徳興里壁画古墳、徳花里2号墳、真坡里1号墳、江西大墓の5基である。 完璧に再現された壁画古墳に入った梨花大学考古美術学科の姜友邦教授は「壁画こそは400年にわたって製作された高句麗文化の真髄である。民族最高の遺産こそは、まぎれもなく人類共通の遺産である」と絶賛したのであった。 江西大墓を観察した前国立文化財研究所長の趙由典氏は「これほど細密に模写するとは! その入念さと描写力は素晴らしい。高句麗を視覚と触覚によって学ぶことができる教育の現場」であると述べている。 「高句麗展」の開幕式に立った私たちは会場に拡がる高句麗文化への賛歌と憧れが、民族文化の共有と民族統一への熱い思いと強く重なっていることを痛感した。高句麗展は3月6日までソウル市で開かれ、その後3カ月間、釜山市で催される予定である。(在日本朝鮮歴史考古学協会会長、全浩天) [朝鮮新報 2003.1.29] |