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〈生涯現役〉 「花の絵水彩画展」が大盛況−李賛英さん

水彩画展に訪れた人々は華麗な絵に関心を寄せていた

 大阪特有の気が強い「1世ハンメ」のイメージとはほど遠い。

 屈託のない笑顔と優しくおっとりとした話し声からは想像もつかない、ダイナミックで華麗な水彩画を描く李賛英さん(80)は、昨年の12月14、15の両日、80歳を記念して大阪・八尾で「花の絵水彩画展」を開いた。

 展示作品は60点にもおよび、2日間で約360人が会場に訪れる盛況ぶりだった。60点の絵は、ほとんど完売したという。絵画教室に通い、2000年3月に堀井かずえファンタジック水彩科を修了した。

 「父を亡くして50余年。女手ひとつで私たち兄弟を育ててくれた母が80歳を迎えた時、70半ば過ぎからこつこつと絵を描いている姿を見て個展を開いてみてはどうかと話を持ちかけてみました」と話す息子の康勲さんは、現在、総聯八尾柏原支部副委員長、在日本バスケットボール協会会長など多くの役職を歴任する。

 「オモニのために家族、親戚たちみんなが実行委員となり、一丸となって個展の準備に取りかかりました」(康さん)

28歳で夫と死別

 種を植えて大事に育てたチューリップの球根が芽を出し、きれいな花を咲かせた。ふと描いてみたいと思いたった李さんは、自然と画用紙に鉛筆を走らせていた。73歳の時だ。

 1996年に大阪で行われた「ウリキョレ女性展・第1回展」でその絵が展示された。昨年3月に行われた第6回まで毎年、欠かさず出品している。

 「野菜を書くのも好きだし、いろんな場所で風景画を描いていました」

 済州島で生まれ、7歳で大阪へ渡った。男4人、女1人の5人兄弟の李さんは、「少女時代と言えば、家事手伝いばかり。絵は兄たちがかいているのを肩越しに眺めているだけだった。振り返り思えば、兄たちの影響が大きかったかな?」。

 21歳で結婚し、2人の子どもにも恵まれ幸せな生活を送るが、夫を28歳で肺結核で亡くした。その後、2人の子どもを養うため48歳までの20年間、印刷工場で働いた。

 「これでも周りからは、仕事の鬼って呼ばれてましてんよ」と笑い飛ばした。

 2、3日の間、空いている倉庫とガレージをくまなく探し出し、その場所に49歳で自ら印刷会社を興した。印刷工場で働いていた日本の友だち6人と共に、会社を始めた日々を思い出しながら、「時代が私をそういう大胆な行動に移させたのかも知れませんね」。

愛国事業に献身

 苦労の多い生活を顧みず、しっかりと愛国事業にも取り組んだ。大阪・中東支部(現在、八尾柏原支部)で女性同盟委員長を71年から89年までの18年間務め、2世にバトンタッチ。八尾地域ではいつしか「名物委員長」になっていた。

 「周囲から、『あんた、18年間の朴正熙独裁政権とちゃうねんから、早く委員長交替し!』とか冗談で言われたときなんか笑っちゃいました」

 現在は、「ひまわり友の会」を発足し、1世のハルモニたち約10人が集まり、旅行などに出かけ同胞の輪を大切にしている。発足して10年が経つ。

 女性同盟八尾柏原支部の黄河春委員長があるエピソードを話してくれた。

 「賛英さんの夫の遺骨を姑が日本に来て済州島に持って帰り、そこに墓を作ってしまった。どれだけ寂しい思いをしたことか…」

 01年6月に息子と2人で夫の遺骨を返してもらうため、50年ぶりに南の地を踏んだ。この時、姑はすでに98歳だった。

 李さんは、話を持ちかけること自体無謀なことだと思っていた。しかし、「お前がわが家の守り神になってくれてありがたい」と言い、遺骨を返してもらえたという。

 それから4カ月後、姑が亡くなったと、思いもよらない消息を耳にする。

 「いろんな思いが頭をよぎりました。南北分断の歴史と痛みをこれほど身にしみて感じたことはなかったです」

 70歳を前に印刷工場を娘夫婦に任せ、心に余裕ができた頃に絵を描き始めた李さん。80歳を迎えたが「青春真っ只中」。人生に引退はない。

 「好きな花はコスモスとひまわり。コスモスは眺めていると心がなごむの。ひまわりは焼けつくような色とくきの太さ、夏の太陽にまっすぐ向かって咲く姿がとても印象的で好き。近い将来、故郷の済州道で個展を開いてみたい」(金明c記者)

[朝鮮新報 2003.2.3]