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山あいの村から−農と食を考える(6)

昔の貧乏百姓の知恵に関心

 1月下旬になって雪がどっさりと降った。地球温暖化などと、とやかくいわれているが気温は低い。氷点下5度だとか、7度といったことが連日である。朝と夕方の牛の世話も指先が冷えてすごくつらい。年齢のせいか指先への血行が不順であるらしく、近年めっぽうに冷たさが感じるようになった。

 日中は雪との格闘が何日も続いた。住宅や納屋、牛舎や車庫の屋根の面積を合わせれば150坪ぐらいはゆうにある。それをおろし、そのままにしてはおけない。家の玄関や、納屋の入口、さらには非常口などは出入りに不自由がないように片づけなければならない。この方がむしろ屋根からおろすことより多くの手がかかる。こうした苦労は雪のないところに住んでいる人にはおそらく考えることもできないだろうし、理解することも困難なことだと思う。もちろんスキー場をはじめ、雪を利用して観光で稼ぐところもあるが、一般的には「雪のないところのくらし」はうらやましい。

 雪との格闘で汗を流したときのビールもうまいが、私にはそれ以上にうまいものが2つある。その1つは納豆汁だ。納豆とコンニャク、油揚げを細の目に切って、人参やゴボウ、セリやネギ、その他もっと多くの野菜が入る。ほかにイモガラといって里芋の茎を乾かしたものを入れるのがこれのミソだ。他のものは一つ二つ欠けても問題ないが、イモガラだけは絶対に欠かしてはならない。もちろん納豆汁だから、納豆がなくては駄目。しかし、この納豆は、粒のままではなく、すり鉢でつぶす。この作業はなかなか手間がかかる。味付けは味噌。この味噌の善し悪しでうまみ良さがきまる。

 熱い納豆汁をふうふう吹きながら、冷たいビールをぐっと飲む。この時のノドの触感はどこの高級なレストランでも味わうことのできない「家庭の味」だ。これを飯にかけても雑炊のようでとてもうまい。

 納豆汁と並んで寒い冬にうまいのは「ザッパ汁」だ。ザッパということばは共通語にあるかどうか知らないが、これに使ってうまいのは断然鰤の頭だ。山形県の庄内地方に鱈の「ドンガラ汁」というのもあるがこれと同じように内臓なども入っていい。厳冬の脂ののったときの鰤が最もうまいわけだが、もしもこれがなければ鮪の頭でもいい。これをダシにして、馬鈴薯や、大根、人参、ごぼう、ねぎなどの野菜をたんまりと入れて煮込むのである。もちろん味付けは味噌がいい。まさしく栄養のバランスがとれた立派な鍋物だ。

 納豆汁や、ザッパ汁を好む私を妻は「育ちがわかる」とからかう。納豆汁は買ってくるものはコンニャクと豆腐、油揚げぐらいなものであとは全部自家でとれたもの。さらにザッパ汁は買うものが少なくていい。今でこそ鰤の頭や骨など、刺身や、切り身のとったあとのものをパック詰めにして300円ぐらいで売っているが昔は魚店にいけば無料でいただけたものだ。その無料の魚しかたべることができない家で、私は育ったのでそれが好きなのである。

 しかし、それにしても、昔の貧乏百姓には知恵があったものだと感心する。もちろん私とてけっして貧乏は好きではないが、しかし昔の貧乏にも学ぶべきことは学んでいいと思っている。たとえば寒鰤の脂ののった刺身はうまいが、栄養の面からすればザッパ汁の方にこそたくさんの栄養素が含まれているはずだからである。牛肉だって、豚肉だって、ヒレとかロースは口ざわりはいいけれど栄養の点でいえば切出しの方がビタミン類やミネラルが多く含まれていて身体にはいいのである。だからといって、それだけを食べていていい、などとはいわないが、刺身とヒレを食べることのためにへたな競争社会に振り回されることなどないではないか、というのが私の論理だ。

 そして私は納豆汁とザッパ汁をたらふく食らって「今は昔と違ってこれが貧乏なくらしなどではないぞ」と胸を張る。(佐藤藤三郎、農民作家)

[朝鮮新報 2003.2.14]