top_rogo.gif (16396 bytes)

〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち〉 作家・姜敬愛(上)

 姜敬愛は、植民地時代の朝鮮を代表する女性作家である。当時、文人と呼ばれた女性のほとんどが裕福な家庭に生まれ、また日本留学をも経験したが、姜敬愛の場合はまったく違う。

 貧しい農民の娘に生まれ、4歳の時、父を亡くした彼女は、生活のため再婚した母につれられ、故郷黄海道松禾から継父の住む長淵で幼年期を過ごした。彼女はここで義理の兄姉の冷遇を受けることになるが、しかし将来彼女が作家として生きるきっかけをつかむことになる。

 それは、継父の書棚にあった「春香伝」との出会いである。これが彼女にハングルと小説に興味を持たせる直接的な動機となる。

「春香伝」との出会い

 小学校に入って、古典小説のストーリーを流暢に話すので、村の年寄りはよく飴を持たせては連れて行き、幼い彼女の昔話に耳を傾けたりしたのであった。そして幼くも小柄な彼女を「どんぐり小説家さん」の愛称で呼びかわいがった。

 向学心に燃えた彼女は、16歳の頃、義姉の夫の助けをうけて平壌の崇義女学校に入学した。ぎりぎりの学費の中で肩身の狭い思いも経験したが、この女学校時代は、彼女をプロレタリア作家として大きく成長させる学び舎となった。

 それはまず、進歩的な学生の組織であった親睦会、読書会に入り、当時急速に普及されていた社会主義思想、マルクスレーニン主義に出会ったことである。そして、多数の貧しい民衆が抑圧される社会矛盾について深く認識するようになる。また、古今の世界文学と国内の文学雑誌を耽読することができた。だが、女学校3年の時、厳しい寄宿舎の規則と、保守的な宗教教育に反対するストライキの先頭に立ち、退学を余儀なくされた。

梁柱東との同棲

 退学させられた彼女は、以前文学講演をとおして知り合った早稲田大学留学生で長淵出身の梁柱東と恋に落ち、共にソウルへ行く。文学に対する情熱と知識欲が、彼女に因習を乗り越えさせる決心をさせたのである。

 ソウルで女学校に編入した彼女は、梁柱東の勧める日本語版「近代文学十講」「近代思想一六講」「資本論」など近代文学と思想書を熱心に読んだ。だが、梁柱東との同棲生活は長く続かなかった。梁柱東とは破綻したものの、彼女の文学に対する夢は、けっして破綻したのではなかった。

 姜敬愛は、民族主義文学と無産者階級文学の折衷を主張する梁柱東の中途半端な妥協論に納得することができなかったのである。これは彼女が、西欧の新しい思想と知識をそのまま鵜呑みにするのではなく、主体的な立場で受け入れ、貧しく抑圧される人々を助けるための真の階級文学を追究し、その道へとはっきり歩き始めたことを意味した。また、階級文学を目指していた当時の文壇事情が、彼女を本格的なプロレタリア作家へとかりたてたとも言えよう。

農村女性の啓蒙運動

 長淵に戻った彼女は、文学修業に真剣に取り組むかたわら夜学を開き、貧しい子供たちのために文学を教えた。一方、反帝反封建の課題を旗印としてかかげて、1000万女性の大部分を占める農村女性の啓蒙運動を展開した、槿友会の長淵支会にも加盟した。

 彼女が書いた処女長編小説の「母と娘」(1931)―これは女性たちの受けた2重、3重の抑圧を多様な社会的関係からとらえ、その根本的解決を模索したものである。

 この時期に彼女は、水原農林学校出身で長淵郡庁の書記として赴任してきた張河一と出会い、やがて結婚する。その後、仁川での日雇い労働を経て、1931年6月、夫とともに豆満江を渡り、異国の土地、間島へ向かった。(呉香淑、朝鮮大学校文学部教員)

※姜敬愛(1906〜44) 平壌・崇義女学校3年(1923)中退(ストライキを起こしたリーダー格として退学処分)。その後、文学修業のかたわら故郷長淵で夜学を開く。以後、間島・龍井に移住し小説執筆。作品に「母と娘」「菜田」「塩」「人間問題」「原稿料二百円」「長山串」など。

[朝鮮新報 2003.2.21]