華麗な壁画が語る朝・日交流−明治カルチェ・ヴィヴァン新春シンポジウムX「古墳壁画の出現とその展開」 |
「古墳壁画の出現とその展開」と題する明治カルチェ・ヴィヴァン新春シンポジウムXが、1月11日、東京都中央区の浜離宮朝日ホールで開かれ、300余人が参加した。同シンポを発案、コーディネーターを務める大塚初重・明治大学名誉教授の司会の下に、全浩天・在日本朝鮮歴史考古学協会会長、網干善教・関西大学名誉教授、西谷正・九州大学名誉教授が演壇に立ち、シンポとパネルディスカッションを行った。大塚氏は全体のまとめの中で「日本列島の古代文化は、東アジア全域から眺める視点が要請される」と述べた。 30年前に発見され、日本の古代史ブームを呼び覚ました高松塚壁画古墳の発掘調査を担当した網干さんは高松塚古墳壁画やキトラ古墳壁画は、高句麗壁画と明確に違うと述べ、古代中国の影響が濃厚だと指摘した。30年前、高松塚古墳が発見された時、死者が眠る墓室の天井には数々の星座、四方の壁面には男女の群像と聖なる神獣である四神がリアルに描かれた。83年にキトラ古墳が初めて調査された時も、精密な天文図と北向きの白虎が発見され、01年には鮮烈な朱色で描かれた朱雀が確認された。 網干さんは、高松塚古墳やキトラ古墳の天井に描かれた星宿図の意義を考える場合、中国古代の分野説による思想的背景があり、四神思想があると指摘した。分野説というのは、古代中国で、全土を天の28宿に配し、各地を司る星宿を定めた天井の区分を示すことを言う。 さらに、網干氏はキトラ古墳の南壁に描かれた「朱雀」は、「駆けながら今にも飛び立つような姿」を描いたものであり、高句麗壁画や中国との共通性はなく、「日本独特のもの」と語った。 これに対し、全氏は網干氏の見解に反論した。まず、当時の日本の古代文化や風俗には高句麗文化の大きな足跡があり、高松塚やキトラの古墳壁画にそれらが明確に表現されていると指摘。古代日本の文化や信仰、習慣などを考察する時、北東アジアの視点からそれぞれ成り立ちを探り、一大強国であった高句麗文化とのかかわりで考えることが大切であると述べた。そして、次のように指摘した。 「壁画のあれこれの部分が中国・唐や高句麗にあるとかないとか、似ているとか似ていないとかを論ずる前に、どこに何が、描かれたのか。描かれた対象とその内容の性格と形象性、全体と部分を明確に知る必要があろう」。そのうえで全氏は「絵画の類型という全体と描かれた図の内容と細部のディティールにおいても高句麗壁画古墳と高松塚・キトラ古墳との間には相似性が見られる。絵画全体とディティールにおいても有機的に統一されることに注目したい。高松塚には墓室天井に描かれた東の日像と西の月像、精緻な星宿図があり、墓室の四壁には男女の人物像と四神図が描かれていた。キトラ古墳には日月像とより精密な天文図が描かれ、壁面に四神図が大きく描かれ、さらには獣頭人身の十二支像であろうという絵もある。 キトラ古墳に描かれた朱雀は『駆けながら今にも飛び立つような』姿をしているが、これは『日本独特なもの』という見解は正しくない。 4世紀末の薬水里壁画古墳や5世紀末の双楹塚には朱雀が羽ばたくようにして駆けており、6世紀末の真坡里4号墳には朱雀が羽を広げて駆けながら今にも飛び立つような姿が描かれている。6世紀末の有名な江西中墓の朱雀は駆け終えて飛び立つ瞬間が描かれており、7世紀初の江西大墓には飛び立って大空を飛ぶ朱雀が描かれている。足下には江西の山々が描かれている。高句麗壁画には朱雀が羽ばたき、走り駆けながら飛び立つ姿、さらに飛び立ち、大空を舞う姿まですべて描かれている。 高句麗壁画古墳には日・月・星宿図、男女の人物像や四神図が典型的に描かれている」。 また、全氏は高松塚やキトラ古墳の被葬者は誰か、という会場からの質問に触れて、「墓室に星空と四神を描くということは、単に室内を飾ることではない。それはそこで眠る人が欲求し、送る人たちが要求する生活と時代からくる。その葬送は、天空と四神を理解する築造者と技術・画師集団の挽歌であったはずである」と答えた。 西谷氏も高句麗文化が北部九州や東北の装飾古墳に色濃い影響を及ぼしたと主張し、次のように述べた。 「特に注目したいのは、朝鮮半島3国時代の高句麗の壁画古墳との関係である。竹原古墳の朱雀、玄武、ならびに福岡県珍敷塚の奥壁の二匹のヒキガエルのほか、王塚古墳では、前室奥壁左側の上部に描かれた両手、両足を広げた小人物像は、高句麗壁画中の守門将を連想すべきであろうか。さらに、福岡県日ノ岡古墳の奥壁全面を飾る同心円文の多用も、高句麗との係わりがあるかもしれない。これらの装飾古墳が築造された6世紀後半と言えば、朝鮮半島では、新羅の勢力拡大に伴って、高句麗と倭は、新たな交流を開始するが、そうした国際情勢の転換を背景として、高句麗壁画古墳の影響を理解すべきであろう」 大塚氏は日本の戦後考古学の揺籃期からほぼ半世紀にわたって積石塚、前方後円墳などの古墳研究をリードしてきた。日本考古学協会会長などを歴任した同氏は、かねてより朝鮮半島と古代日本の濃厚な文化的交流をさまざまな側面から明らかにしてきた。この日のシンポでも「古代東国の壁画古墳とその問題点」について語りながら、とくに西北九州の装飾古墳壁画を残した集団と東国社会との関係は、その内容は不鮮明であるが、否定できない、と指摘した。さらに、「6世紀後半から終末期にかけて北部九州から東関東および東北地方の太平洋沿岸に移動する人々があったことは間違いなく、その移動に海上航路がとられたことを考慮すべきだ」と強調した。 シンポで注目されたのは、キトラ古墳で新しく発見された獣頭人身の十二支像の絵をめぐっての討論であった。網干氏は新羅で最も古い獣頭人身十二支像をもつ龍江洞古墳が8世紀初であるという説を援用してキトラ古墳の獣頭人身像の絵は、これより古いので「日本独自のもの」であることを強調した。これに対し、全氏と西谷氏は慶州・龍江洞の獣頭人身十二支像は7世紀末であることを指摘し、「日本書紀」に述べられているようにこの時期の新羅と古代日本との深い関係から言って新羅で盛んに作られた獣頭人身十二支像による影響と見るのが正しく自然であると反論した。 この日のまとめでも、大塚氏は「若い時から考古学の道を歩き続けて56年経った。東アジアの関係史の中から日本を見つめる視点が大変重要であることが、最近のさまざまな発掘や研究によって明らかにされたことは喜びである」と強調した。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2003.2.24] |