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〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち〉 作家・姜敬愛(下)

矛盾のるつぼ

 姜敬愛にとって間島はどんな所であったのだろうか? 当時日本で活躍していた作家、張赫宙にあてた彼女の手紙の一節を引用してみよう。

 「先生、万難を排して一度満州においでください。ここには山と積まれた生の材料が、先生のような方を待っています。必ずおいでください。そして不朽の名作を書いてください」(1935年)

 彼女の目に映った間島、それはけっして外地ではなかった。ここでも朝鮮人民は、日帝の支配と弾圧に苦しめられ、さらに中国人地主や官憲の圧迫と排斥を受けていた。それゆえ間島は、彼女にとって民族の尊厳と権利を踏みにじる抑圧者と真っ向から対峙し、祖国と自由と真の文学を取り返す戦場だったのである。

 日本の歴史学者、梶村秀樹は次のように述べている。

 「当時の在満朝鮮人は、それこそ日本帝国主義と中国人民、朝鮮人民、そして中国ブルジョワジー、朝鮮のブルジョワジー、それからソ連の影響など、実にいろんな力関係が本当に入り乱れているその坩堝のような状態の中におかれた人々でした。30年代の世界史の矛盾の一つの焦点がそこにあったといっても、決して言い過ぎではないでしょう。…民族と階級の問題というような難しい言葉で語られる質の問題も、極めて典型的な形でそこに表れていました。」(梶村秀樹著作集・1巻84ページ)

 彼女はこの間島で亡国の民の悲哀をより強く痛感した。そして階級間の矛盾だけではなく、民族間の矛盾を生々しくとらえ、その解決のため命を賭して闘う独立運動家たちに、無産者階級と民族の解放への大きな期待をかけた。

朝・日の連帯の視点

 検閲のきびしい出版事情の中で抗日遊撃隊員を直接登場させるに至った中編「塩」(1934)こそは、そのことを如実に証明してくれる作品である。「塩」では、愛する夫と息子を殺した敵が共産党員だと信じてやまなかった主人公が、死を覚悟で塩を密輸する山中で、それが日帝の欺瞞宣伝による虚偽であることを知るまでを描いている。抗日革命闘争に朝鮮人民の運命を委ね、熱い声援を送る姜敬愛の姿が鮮明に浮かんでくる。張赫宙は、この作品を「朝鮮文学の傑作の一つ」(1935)と評した。

 同年、彼女は現代朝鮮小説史で屈指の作とされる社会主義リアリズム小説「人間問題」(1934)を発表した。作品は、チョッチェとソンビという若い男女2人の主人公の運命をとおして植民地統治下における朝鮮社会の矛盾に迫り、労働者階級の歴史的な役割を訴えている。

 東亜日報に、120回にわたり連載されたこの作品は、彼女のよき理解者で助言者でもあった夫、張河一の手によって解放後労働新聞社から単行本として出版(1949)された。またロシアでもロシア語で翻訳出版(1955)されたし、ソウルでも幾度か出版されている。

 姜敬愛の作品の中でも異色とされる作品は、日本語で書かれた「長山串」(1936)である。彼女の故郷から近い黄海道夢金浦長山串を舞台に朝鮮人労働者・亨三と、日本人労働者・志村の熱い連帯をテーマにしたこの作品は、当時、在朝鮮日本人を読者とする大阪毎日新聞(1936)朝鮮版に発表され、日本の文芸雑誌「文学案内」(1937.2)に収録された。

闘病の末逝く

 姜敬愛は、「北郷」の同人、朝鮮日報間島支局長も任じたが、長い闘病生活の末1944年4月26日、故郷で亡くなった。母を亡くして1カ月後のことであった。

 民族解放運動の核心地域ともいうべき間島で活躍した姜敬愛は、作家としての理念ばかりでなくその実践において最先端の地位にいた。特に弱者としての女性に強要されたあらゆる抑圧を通して、時代の本質に迫り、世の女性たちが社会の主体的人間として生きる道を切り開くことを切に願った。そういう意味で彼女は、女性解放文学に一石を投じた誇らしい女性作家であった。姜敬愛の生き方と作品は、女性の解放運動が進むにつれより大きな意義を持つことであろう。(呉香淑、朝鮮大学校文学部教員)

※姜敬愛(1906〜44) 平壌・崇義女学校3年(1923)中退(ストライキを起こしたリーダー格として退学処分)。その後、文学修業のかたわら故郷長淵で夜学を開く。以後、間島・龍井に移住し小説執筆。作品に「母と娘」「菜田」「塩」「人間問題」「原稿料二百円」「長山串」など。

[朝鮮新報 2003.3.3]