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3.1運動と柳宗悦−蔑視、差別、迫害の時代沈黙せず発言した知識人

 3月。

 淡い陽の光をうけてベランダに立ち、澄んだ空を見あげると、つくづく春めいたなあ、と思う。

 だが私の心の中には白刃のような冷たい冬風が吹き荒れている。部屋のテレビは、朝から「北朝鮮」非難、攻撃をくり返している。

 良心的な日本の知識人はいったいどこへ行ってしまったのか、その声がほとんど聞こえてこない。

 私は歴史学徒の一人として、昨今の狂気めいた状況が3.1運動当時のこととダブってきてならない。

 1910年、朝鮮を完全に植民地にした日本帝国主義は、その初代総督に陸軍大臣寺内正毅を兼任させた。寺内は「朝鮮人は法に服従するか、さもなくば死すべし」と迫り「武断統治」を実施した。言論、出版、結社、示威等の自由を奪うだけでなく、土地、財産等の生存権までも奪った。多くの朝鮮人は生活の糧を求めて故郷を離れ海外に流浪した。

 それから10年後の1919年3月1日、教育界、宗教界の代表がソウルで「独立宣言書」を発表すると民衆は「朝鮮独立万歳!」を叫びデモ行進が始まった。それはたちまち全国津々浦々に波及した。独立を要求するデモ参加者は200万人以上にのぼりまさに全民族的運動に発展した。

 3.1運動はわが民族の知恵と独立の意志を全世界にアピールした快挙であった。

 これに対し、日帝は憲兵、警察はもちろん、陸海軍を出動させて、徒手空拳の平和的なデモに戦場のごとく銃火をあびせて苛酷な弾圧をした。

 7500人虐殺、1万5961人負傷、4万6948人投獄、破壊、放火の民家715戸、教会47カ所、学校2カ所(統計=韓国歴史教科書)。

 この中に、京畿道水原郡で教会に29人の老若男女母子を閉じ込めて焼殺した事件があった(水原堤岩里事件)。

 日帝はその後、3.1運動を「騒擾事件」、「暴動」と呼び、運動参加者を「暴徒」、「不逞鮮人」と罵り弾圧をくり返した。

 このような日帝の暴虐行為に対し、当時の日本の知識人は沈黙していた。ただ一人、哲学者柳宗悦はその沈黙を破って果敢に発言した。

 柳宗悦は李朝陶磁器にはじまって朝鮮の文化芸術に心酔した人であった。朝鮮の芸術は「世界の最高の栄冠を戴く」と言う彼は、日帝の朝鮮支配、3.1運動の弾圧に義憤をおさえることができなかったのである。

 柳宗悦は言う。

 「日本の同胞よ、剣によって起つ者は剣にて亡びるのだ。軍国主義を早く放棄せよ。………他人を蔑み、卑み虐げる事に少しでも時を送ってくれるな。弱者に対する優越の快感は動物に一任せよ。吾々は人間らしく活きようではないか。自らの自由を尊重すると共に他人の自由をも尊重しよう。若しも此人倫を踏みつけるなら世界は日本の敵となるだうろう。そうなるなら亡びるのは朝鮮ではなくして日本ではないか」

 今、この重要な歴史的時期に、柳宗悦のこの言葉を重く受けとめるべきであろう。

 また、拉致「被害」だけは、大々的に報道するが、3.1運動の弾圧、関東大震災時における在日朝鮮人大虐殺、強制連行等、日本が「加害」者であった事実は隠蔽するがごとく言及しないマスコミの一方的なやり方に憤激を覚えるのである。

 もし、柳宗悦が存命していたならば今日のこの状況を何と言うだろうか。

 3.1運動が起きたころは、日本人が朝鮮人を人間として認めず、蔑視、差別、迫害した時代であった。そのころ柳夫妻は15回にわたって朝鮮を訪問し、朝鮮人の心の中にとび込み、友誼と敬愛の情をもって接し、朝鮮人のために発言し行動した。そのために権力側から危険人物として睨まれることとなった。兼子夫人は、それについて次のように述べている。

 「その関係者から、そういうことを言っては損だと言われたこともありました。また敵も多かったようでした。……私から言うのはどうかと思いますが、柳の朝鮮に対する態度は立派でした。とくに総督府の同化政策といいますか、それに対してはきびしい文章で対しましたが……お前も覚悟だけはしておけ、と言っておりました」

 私は今、私の胸に温かい風を吹き込ませてくれる柳宗悦全集や「朝鮮の土となった人(浅川巧)」(高崎宗司著、草風館)などを精読している。

 3.1の日から84年、しかしまだまだ冬風はきびしい。真実の春はいつの日のことか!(鄭晋和、歴史学専攻)

[朝鮮新報 2003.3.5]