コッソンイ作文コンクール1等作品−2 |
私の弟、用秀(朴京華、東大阪朝中1年) 「うわーん、うわーん」 病院に用秀の泣き声が響きわたる。用秀は話もできず、自力で食べ、歩くこともできない。手も自由に動かすことのできない障害者である。 用秀は一昨年7月から入院している。ひと月に3、4回家に帰って来るが、また病院に帰る時はのどが張り裂けるくらい泣いて泣いてまた泣く。そんな用秀の泣き声を聞くたびに心が痛む。 用秀が入院して心配事は1つ減ったが、悩みはまだまだ多い。ひとつは用秀をみる周囲の人々の目だ。(用秀が学校の公開授業に来たら友達はどう思うだろう?) しかし私のオモニは私とは比べものにならないくらい悩みが多いと思う。(オモニは用秀がそばにいることが幸せなのだろうか?)と時々考えることもある。 そんなオモニを悩みから解放してくれるのが、「大阪ムジゲ(虹)会」だ。オモニはその会長を務めている。私は昨年行われた、ムジゲ会の全国交流会に参加した。交流会は年に2回行われており、会には用秀以外にもさまざまな障害をもったトンムたちがたくさん参加していた。彼らはみんな私より年下だった。(こんなに幼いトンムたち、どんなに苦労が多いだろう…)。 交流会の会場となった北海道朝鮮初中高級学校では、同校のオッパ(お兄さん)が用秀に付き添ってくれた。オッパは最初、用秀の気持ちを理解することができず大変そうだった。その姿を見ながら私は(用秀は今こう思っているんだ)と心の中で思っていた。 用秀は話すことができないので、他人には彼の気持ちがわからない。しかし私は4歳から用秀と一緒に育ってきた。旅行に行く時も、寝る時も、用秀がトイレに行く時もいつも私は彼のそばにいた。だから他人にはわからなくても、私だけは用秀の心を理解することができる。なぜだかわからないけれど。 人は用秀をみて「かわいそう」と思うけれど、それは間違った考えだ。私と用秀は姉弟というきずなでかたく結ばれている。 交流会が実現する前まで、オモニたちは電話で互いの悩みを相談しあっていた。私の子どもの将来はどうなるんだろうと、泣きながら悩みを言うオモニもいた。 その日、宿泊先のホテルではそんな悩みを打ち明けるアボジ、オモニたちの集いがあった。集いは午後10時から夜中の2時まで続いた。私はその間、北大阪初中に通う沈由梨オンニ(お姉さん)と話をした。由梨オンニも、自分の兄が障害者だという悩みを持っていた。学校、家族、障害者がいる兄弟を持つ互いの思い、さまざまな病気を持つトンムたちを見て思ったことなどを話し合った。私は話しながら、(悩んでいるのは私だけではなかったんだ)と安心したし、緊張の糸がほぐれていくのを感じた。 由梨オンニもいろんな悩みを私に打ち明けてくれた。オッパが道端でいきなり大声を出すので、近所の老人からよくしかられるという。由梨オンニもやはり、オッパを見る周囲の目がいやだと言っていた。由梨オンニと私は、時間が経つのも忘れて夜遅くまで話した。 オモニたちの集いでは子どもたちの将来についてさまざまな意見が出されたが、人によって意見が違い、しばしば論争になることもあったそうだ。しかしひん繁に会うことのできない各地のアボジ、オモニたちが自分の意見、考えをのべることができてとても有意義だったという。2泊3日という短い期間だったけれど、オモニも私も誰にも遠慮することなく心から自分の悩みをさらけ出すことができた、とても良い場だったと思う。何よりも「私たち」だけが悩んでいるのではないことを知ったことがうれしかった。 交流会が終わった後も用秀は入院している。用秀は寝る時、足をギブスで固定している。用秀は私の2倍、3倍苦労している。彼は障害を持っているけれど、私は他のトンムたちの弟や妹がうらやましいとは思わない。用秀の成長―それが私の、そして家族の最大の喜びだ。用秀とともに生きて行くことは大変かも知れないが、それを悲しくなんて思わない。いや、どうして悲しいと思わなければならないのだろうか。用秀は私たちと何も変わらない。ただ、少し個性が強いだけだ。 私の夢は、いつか用秀が歩けるようになった時、一緒に祖国に行くことだ。どんな障害を持っていても人はみんな一緒。特別でもない。用秀の成長は、私の喜び。(原文は朝鮮語、編集部訳) [朝鮮新報 2003.3.8] |