朝鮮の食を科学する〈14〉−カロリーが高く主食代わりのムッ |
ムッという食べものを知らない在日の人がどれだけいるのだろうか。冠婚葬祭で味わった経験がおありだろう。そして1世、2世の人たちにとってはなつかしい民族料理である。ムッは、そば粉、緑豆粉、どんぐり(かしの実)粉のデンプン質を固めたもので、柔らかく、味も淡泊で食べやすい。プリンか絹ごし豆腐の歯ざわりといえようか。ご飯よりも軽いものを食べたいとき、おなかにもたれないので、むかしから老人、女性、幼児の好きな食べものである。カロリーが高く主食代わりになり得る。 木の実で手作り 一般にはそば粉でつくられる灰白色の「メミルムッ」と呼ばれるのが多い。高級なのが緑豆粉でつくられるものだが、青味がかった色合いになることから「青泡」と呼ばれる。庶民的なのが「トトリムッ」と呼ばれるもので、どんぐりやかしの実の粉からつくられ、黄褐色をしている。 元来このトトリムッは食糧不足を補うための救済食品であった。トトリムッはいまでこそ工場生産の商品となって韓国の市場で売られ、日本の女性観光客の人気食べものだが、本来は、秋に野山で拾い集めた木の実で手づくりしたものだった。筆者も京都で戦争中の食糧難のとき、木の実を集めてオモニのトトリムッをよく食べたものである。 「ムッ」という語の意味は、漢字で当てられるのは「★(糸偏に墨)(ムッ)」で、「まとめる」という意味か? 「名物紀略」(黄泌秀著 1870年頃)には、「緑豆の粉を炊きつめたものを索≠ニいうが、俗に★(糸偏に墨)≠ニもいう」とし、「事類博解」(1885年)には、ムッを豆腐ととらえ、「緑豆腐」と記している。緑豆粉からつくった青泡を指したようだ。また「京都雑誌」(18世紀末)などにはこのムッを使った蕩平菜という料理が出てくる。「緑豆のムッを細かく切り、豚肉、芹、海苔と酢じょうゆを混ぜて和え、さわやかな春の夕べに食べるべくつくるのを蕩平菜という」(「東国歳時記」1949年)とある。いまもこの料理は「幸幸徴」と呼ばれ韓国ではポピュラーなメニューである。 蕩平菜と呼ばれるには由来がある。18世紀初、朝鮮期21代英祖王のころ、政権内では両班の権力争いが激化し、まとまりがつかない状況が続いていた。この解決に腐心していたのが宋寅明(1689〜1746)で、ある日ソウルの市場を通り過ぎながら、「蕩平菜」料理が売られているのを見た。当時は蕩平菜とは言わず、「骨董菜」と呼ばれていて、いまの雑菜と呼ばれる春雨料理だった。ただ売子が「いろいろよく混ぜ合わせておいしい」という宣伝文句に、はたと思いついたのだった。権力争いを解決するには「いろいろな立場を公平に認め合うことだ」という「公平論」を原則に立てることだった。この考え方に基づいて四つのグループの代表を集めて、公平な話しあいで妥協が成立する。 この公平論が蕩平論と呼ばれた。そしてこの話しあいの場に出された食事メニューが、市場で売られていた骨董菜であった。 宋寅明がこの料理を指し、黄色のムッ、緑の芹、赤い豚肉、黒の海苔の四色を混ぜたムッがおいしいのは、それぞれが大切な役割を果たしているからだと熱心に説いて共感を得た。以来、この骨董菜が蕩平菜(四色論)と呼ばれるようになったという。 今でもこの由来にあやかって、話しあいをする場だとか、意見を調整しなければならない席の料理には、縁起の良いこの蕩平菜が出される。 高知の田舎豆腐 日本にこのムッがある。トトリムッである。四国の高知市やその周辺の日曜市などでは、11月から3月頃にかけて、つい数年前までは「かし豆腐」と呼ばれて売られていた。高知県立図書館には「皆山集」という資料があり、次のようなことが確認できる。 それによれば秀吉が朝鮮を侵略した1592年、四国の土佐から長宗我部元親が出兵した。朝鮮で長宗我部との戦いに破れた朝鮮側の将であった朴好仁は一族郎党二百数十名を連れて土佐に来る。約束事があったらしく、彼らには「唐人町」(今でもある)があてがわれ、豆腐づくりの独占権を持つ「豆腐座」が設けられた。どうやらこの地域には大豆からつくる豆腐は、いまだ知られていなかったようだ。朴好仁には高知に来たとき12歳になる息子の元赫がいた。彼は秋月の姓を得て長次郎と名乗り、後に秋月長左衛門となる。 朴好仁は朝鮮通信使が来たとき、帰国し、唐人町は秋月長左衛門が引き継ぐ。 その唐人町の秋月家の豆腐座は68戸のみの独占体制で、幕末まで続く。土佐の高知にはこの豆腐座のつくり方の固い豆腐を田舎豆腐と呼んで、いまも売られている。 もうひとつ唐人町の豆腐座ではかしの実でつくったトトリムッも売っていたのだった。気候の温暖なこの地方には豊富なかしの実、つまりトトリが多い。これを活用して売ったトトリムッのつくり方を、いまもこの地の人たちが知っているのである。 九州の熊本県と宮崎県の境の山村にも、このトトリムッがある。数年前に調査したが、資料がなく、朝鮮との関係についてはわからなかった。(鄭大聲、滋賀県立大学教授) [朝鮮新報 2003.3.14] |