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山あいの村から−農と食を考える(7)

そばブームは、現代の豊かさへの抵抗

 近年全国いたるところでそば≠ェブームになっているのはなぜなのだろうか。そば≠漢字では「蕎麦」と書き、「雑穀」のなかに入る。「雑穀」ということは米を「主穀」と呼ぶかどうかはわからないがいわゆる米からみれば「雑」なもので、価値の低いものということのようである。その雑なるそば≠ェたいへんなブームを呼び、低所得者からよりもむしろいわゆる「中流族」に親しまれている。その理由はいったいどこにあるのか。

 私の住む37戸の小さな集落でも「そば体験道場」なるものを行っているがそれには思いのほかに人が集まって来てくれる。なかでも集落内の人よりも、山形市街や、上山市街に住んでいる人たちの方が積極的で参加者が多い。

 そしてその人たちの年齢や、所得といったことでも幅が広く、層が厚い。

 しかし、私個人はそばがけっして嫌いとはいわないが、そば粉でつくるそばがき≠ネどにはあまり好感を持っていない。むしろそれが「大好き」などということばを聞くと、憎らしいような気さえする。なぜなら、私が子どもの頃は「そばがき」は貧乏人のたべるものだったからである。「今夜のごはんが足りない」となると祖母は少ないその残りごはんを沢山の湯で溶かし、それにそば粉を入れてかきまわし、「米かぼい」(米をかばうの意)として家族の「腹ふさぎ」にしていたからである。正直にいってそれはけっして美味しくなかった。その理由の1つにそばの製粉の仕方が今のように表皮をとってからやるのではなく、表皮のついたままを粉にしていたことや、さらにその粒子が粗かったからである。だからそれをたべた経験のある人は誰しもそばがき≠おいしいとはいわないようだ。それが今は逆転している。

 先日、あるところに行って、鮨のごちそうが出た。回転鮨などで使われる冷凍もののネタではなく、ほんものの生鮨だ。それと合わせて仲間の一人がそばがき≠作って出してくれた。ところが、もちろん鮨もたべるがそばがきも「うまい」「うまい」とたべるのである。実際私もおいしくいただいた。こうしたことは、昔であればとても考えられないことである。

 そのさまを見ながら、私はものの「うまさ」には2つあることに気づいた。つまり、舌に合う、口に合う、あるいは栄養価が高い、珍しい、新鮮だ、さらには高価であることなどなどである。そしてもう一つ、それは「身体が要求するもの」によるうまさ、である。したがって、新鮮な脂ののったトロやサシの入ったビーフステーキだって、毎日たべたらそれは身体が要求しなくなり、全然おいしくなくなる。つまり、必要以上に満たされすぎればそれを身体が要求しなくなっておいしくなくなる、ということである。

 それに対し、そばや、そばがきを「うまい」といってたべ、さらには遠くまでうまい「そば屋」をさがしてたべ歩くのは、現代の豊かさに対する抵抗のようなものであり、不足している微量栄養素や、自然の必要性を呼ぶ声のように私には聞こえるのである。

 そして私は、その「そば打ち体験道場」の場長として、参加者に話すのだ。すなわち「そばのうまさ」はもちろん打ち方の技術にもある。けれど、それは本来のそばの中味ではない。どこの誰が、どの畑で栽培したものであるかが基本だ。もっとはっきりいえば、そのそばがおいしくないというのなら必ずそれは外国からの輸入物だ。そしてそれは安価なるがゆえに多く使われている。なかでも中国産が最も多く、カナダなどの諸外国から輸入したものである。

 近年政府は、大豆、麦、そしてそばを減反の田んぼに栽培することに助成金を多く出し奨励しているので、その栽培面積が少々増え、自給率も少しは高くなってはいるけれど、まだまだ輸入物で大方が占められている。だから特に人口の多い都市の中にある店のそばはまずいのだ。またそれを茹でたり、洗ったりする水が、水道の薬剤で汚れているからまずいのだ。

 ところで、わが道場のそばは「銀河高原長坂」の畑で生産したもの。その土地の標高は400メートル。したがって昼と夜の気温の差が大きいとあって、糖分の高い実が稔る。無農薬はもちろんだけれど、化学肥料もいっさい使っていない。なかんずく、そばは、肥えた平場の水田のようなところではなく、銀河高原の開墾地のようなやせた土でつくった方がおいしいのだ。貧しい人には厚い人情があるように、そばもやせた土のやさしいところで育ったものがうま味があるのだと。

 若い人たちはそばを打つのが楽しいようだが、逆に高年齢の方たちは、酒とつまみを持参してきて村の公民館で呑むのが楽しくみえる。そして私たちはその両者に応えるために、山菜の干物でつくった煮物や、ばあちゃんの漬けた青菜漬けや、たくあん漬けなどを持参して、共に楽しむ道場なのである。しかもその「呑むたのしみ」が旅館や、町の宴会場のそれとはどこか違う。そのわけもまた出すお金が少なくてすむからなどではないように私には見える。つまり、それはトロや、ステーキでは満たされなくてそば≠求める肉体のように、心の空洞がなにかを求めているように私には思えてならないのである。(佐藤藤三郎、農民作家)

[朝鮮新報 2003.3.28]