コッソンイ作文コンクール1等作品−7 |
出会い(李安奈、東京中高高級部2年) 待ちに待った2002年、夏季社会実践活動…。 私はこの夏、総聯千葉西部支部で夏季社会実践活動を経験した。夏季実践活動では学校とは違うさまざまな人との出会いがあった。そのなかでもとくに印象深かったのは、西部支部委員長との出会いであった。 出会いといっても、西部支部委員長と会うのは今回が初めてではない。 私は小学校4年までは日本の名前、「中川安奈」で日本の学校に通っていた。朝鮮人ということをまったく知らなかった訳ではなかったが、近所にあった日本学校に日本の名前で通うのがあたり前だと思っていた。 私が初めて「夏季学校」に参加したのは、小学校3年の時だ。初めて聞くウリマル(朝鮮語)、ウリノレ(朝鮮の歌)だったが、なぜか興味が沸いた。朝鮮人のDNAだろうか、その時から心の中では小さな変化が芽生え始めた。朝鮮学校に通っている親戚の姿を見ながら、「私も朝鮮学校に通えないだろうか」という思いが頭に浮かんだ。 丁度その時、私の心に種を蒔き、応援してくれた方が新しく赴任してこられた西部支部委員長だった。 西部支部委員長はわが家を度々訪ねてこられた。アボジのいない家庭で育った私は、委員長を実のアボジのように慕った。 委員長は、いらっしゃるたびに必ず私を側に呼び寄せる。そして、「安奈、朝鮮学校に通ってみるかい?」「朝鮮学校は楽しい所だよ」「楽しいし、友だちが多いし、すべていい。一度一緒に行ってみよう」と満面の笑みを浮かべ、そうおっしゃった。 私と支部委員長は、いつの間にかとても親しくなった。朝鮮学校に通うことが自然なことだと思うようになった。 しかし、わが家の状況で、朝鮮学校に通うことは簡単ではなかった。経済的にも難しかった。家の事情を知っていた支部委員長は、私を朝鮮学校に編入させようと、運営費をはじめとする問題を、解決するため奔走してくださった。 今考えても、月給も満足にもらえなかっただろうに、どうやって私の制服を準備して入学の手続きまでしてくれたのだろうか。 委員長が対策を講じてくれたおかげで、私は5年生から千葉朝鮮初中級学校へ編入することができた。そして、編入したその日から5年間を、1日の欠席もなく通った。毎日が本当に楽しかった。何が楽しいのかと聞かれてもうまく答えられない。しかし、とにかく楽しい日々だった。 私はウリマルの勉強も一生懸命した。一日も早くトンムたちとウリマルで話をしたかった。言葉遣いがおかしい、それは使い方が違うという指摘もかまわず、知っている言葉はすべてウリマルで話した。ウリマルをよく使うと友だちも増え、本当に嬉しかった。 何よりも私が自慢に思っていることは、民族教育を受けて3年目になったその年、中央口演大会の漫才部門に入賞したこと、中2の時には在日朝鮮学生文学作品コンクールの韻文部門で1等を受賞したことだ。そればかりか、高級部1年の時は、漫談「隣の芝生は青い」で金賞を受賞する栄光を授かった。高級部2年の現在は、クラス委員、それも栄誉ある国語(朝鮮語)部長という大きな任務を得てウリマルを誇り、守っていく旗手になっている。 私はウリハッキョで学んできた7年間を通じて、真の朝鮮人に育った。 そして今年の夏休み、私は堂々とした民族心を胸に、夏季社会実践活動に参加することになった。夏季学校は私の出発点だし、誰よりもがんばろうと心に誓った。 7月30日、足取りも軽く、支部の事務所を訪れた。 私たちを待っていた支部委員長は私を見るや、「やあ! 安奈が来たのか」と懐かしく迎えてくれた。支部委員長は、「安奈、ここへ来てあいさつをしなさい」とおっしゃいながら、他の支部の人たちに、まるで娘のように紹介してくれた。 支部委員長のおかげで今私がここにいるのに、今日は委員長と一緒に活動できる。嬉しくて胸がはずんだ。 社会実践活動。私はその日を待ちに待った。支部委員長との出会いもそうだが、夏季学校で第2の「李安奈」たちに早く会いたかった。 動員活動の初日。私は定刻より早く支部事務所へ行った。「アンニョンハシムニカ!」と事務所に入ったが、誰もいない。(え? なぜ誰もいないの?)。気がかりだった。 いつの間に来られたのか、「やあ、安奈! 早く来たんだね」と明るい声が聞こえた。支部委員長が汗を拭きながら入ってこられた。同胞の家へ「朝鮮新報」を配達してこられたという。 これが支部委員長の1日の始まりだ。 社会実践活動の期間、一番印象深く、刺激を受けたのは委員長の姿だった。これまでは私への愛情しか知らなかった。しかし、委員長は私だけではなく西部支部のすべての同胞に温かい愛情を注いでいた。支部には休む間もなく電話がかかってくる。委員長は電話を受けるのが嫌ではないという。 「はい、西部支部です。××オモニ、はい、わかりました。すぐにお訪ねします」。××アボジ、××ハラボジ、私は無心に聞くことができなかった。支部委員長にとって同胞はすべてアボジであり、オモニ、弟、兄さんなのだ。委員長は、支部の同胞はウリ(私たちの)家族だとおっしゃる。だから、電話を受ける時や私たちと話す時は満面に笑みがこぼれるのだ。 委員長の活動は、「朝鮮新報」の配布から始まり、夜遅くまで続く。そんな生活を何年続けられたのだろうか、その中で第2、第3の李安奈をどれだけ育てられただろうか。 夏季学校動員活動! 今年の夏は例年より特別に暑かった。でも、私はとても楽しかった。そして燃えた。 私たちは支部で準備してくれた地図と住所録を持って同胞の家を訪ね歩いた。 西部支部は広い地域だ。歩いたことのない道、初めて見る地名、知らないことが多かった。しかし、地図と住所だけ持って同胞の家を一生懸命に探した。見つかった時は本当に感動的だ。 しかし、現実は感動より失望がより大きかった。話では聞いていたが、私たちに水をかける同胞もいた。その上、日本国籍を取得したので今後は絶対に来ないでくれという同胞もいた。学校ではよく聞いたが、このような事実を直接目撃することは、あまりに衝撃的だった。 民族的な良心から悩む同胞もいたが、自分の国、自分の民族から目をそむけ、それを捨てる同胞がこんなにも多いのか。在日同胞社会は間違いなく、今危険な限界を超えているということを実感した。このような難しい同胞社会の中で、支部委員長は「李安奈」を探してくれ、私が朝鮮人として生きる道を探してくれた。このすばらしい「出会い」を通じて私は民族教育を受けることになった。 民族教育を受けた私は、朝鮮人として生まれたことを誇りに思う。日本で暮らしながらもウリマルを話せることが、また誇らしい。チマチョゴリも誇らしく着る。同胞社会が難しい今こそ、このような「出会い」が貴重だろう。 支部委員長との「出会い」を私も実践していきたい。難しい道だからこそ、もっと会わなければならない。第2の「李安奈」との「出会い」のための道は、私自身が歩むべき道であることを強く確信した。(原文は朝鮮語、編集部訳、おわり) [朝鮮新報 2003.4.7] |