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〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち〉 動画作家・羅惠錫(上)

波乱に富む人生

 羅惠錫は、著しく個性的な自分の世界を構築した「新女性」であった。

 それは第一に、高羲東、金觀鎬、金瓉永に続いて日本で油絵を勉強し、ソウルで初めて個展(1921)を開催、「朝鮮美術展覧会」(鮮展)、東京の「帝国美術院展覧会」(帝展)にも連続入選した朝鮮最初の女性西洋画家であったこと。第二に、東京女子留学生親睦会を組織して機関誌「女子界」を創刊、その第2号(1918)に小説「瓊姫」を発表した、現代文学における最初の女性作家であること。第三に、1919年3.1独立運動に積極的に参加、5カ月間獄中生活を経験、「満州国」安東県副領事夫人という身分を利用して、国境を出入りする独立運動家の便宜を提供したり、女子夜学を開くなど、民族運動にもかかわったこと。第四に、日本女子留学生の一番手となった尹貞媛の「良妻賢母論」を否定、男女平等を主張(時論「理想的婦人」―学之光・1914)、1年8カ月の欧米旅行(1927〜29)での見聞、体験にもとづき、既成概念から抜け出た自己のアイデンティティを公的領域で主張したこと。それから、才子・崔承九との恋愛、彼の急死、弁護士金雨英との計算された結婚、崔麟との恋愛、離婚、最後には世間の非難を浴び、誰にも看取られず死んでいった女性であったことから見て取れる。

 この波瀾に富んだ人生は、「人間として生きたい」、つまり女性も男性と同じ人間として待遇され、人間らしく生きる義務と使命があるということを、生涯の目標とし、それを追究し実践しようと闘い続けたところに起因する。

東京への留学

 「人間として生きたい」という生涯のテーマは、画家として生きた彼女の絵の中にもはっきりと表れている。彼女の芸術的感覚は「毎日申報」に「東京学校の朝鮮閨秀」、成績のずば抜けた女子留学生として、許英肅、金壽昌と共に紹介されたほどであった。

 彼女の画家としてのデビュー作は、1919年1月「毎日申報」に一種の漫評形式で年末年始の歳時風俗を描いた9枚の絵である。この絵は「師走の忙しい時期・元旦」という題名で、女性たちの日常生活を中心に、あわただしい師走と1年を始める元旦の礼式と習慣をあまねく繊細に明るいタッチで描いたあと、女性の話し言葉で簡単な説明を付け加えている。電気やガスもなかった当時のこと、洗濯だけでもたいへんだったであろう。洗ったものをきぬた打ちをし、2人して炭アイロンをかける朝鮮の独特な洗濯、それだけでも過重な労働である。そういった仕事を全部引き受けなければならないのが女性であった。

 老いも若きも関係なく、女性にだけ任せられた家事労働は過重な労働だという羅惠錫の女性でなくしては捉えられない視点といえる。また、一番終わりの絵で、2人の嫁が占いをしながら夫から妾が離れるのを望んでいるのは、当時の女性たちの悩みをうかがわせてくれる。そして羅惠錫自身もそのような女性たちの運命をいつも気にかけていたことを意味する。

4コマ漫画も

老いも若きも働きづくめの女性たち(右上、右下)アイロンがけは二人がかり(左上)元旦の朝、祭礼する男性たち(左下)

 1920年「新女子」に2回連載した木版画も女性画家としての視点をうかがえる。「あれが何か」(1920)は、バイオリンを持った新女性が真ん中にいる。あれとは、新女性が持っているバイオリンのことだ。それを見る年老いた男性は、生意気だと評し、若い男性はかわいいと思う。当時彼女自身を含む新女性の置かれた、困惑に満ちた場面を見せてくれる。

 「金一葉先生の家庭生活」(1920)は「新女子」を主催した金一葉が原稿を書き、読書をする傍ら家事にも忙しい大変な日常生活を4コマ漫画形式で描いた。これはまさに羅惠錫自身の生活であっただろう。

 羅惠錫は女性としての立場から、当時の女性たちの日常生活を支配していた過重な家事労働と封建的因習に対する批判的な視点を持って、自分の絵の中にそれを投影していった。彼女は美術活動を始めた初期の作品から、女性も「人間として生きたい」という熱望をあらわにした。(呉香淑、朝鮮大学校文学部教員)

※羅惠錫(1896〜48) 進明女高普(1913)を経て、東京女子美術学校を卒業(1918)。美術、文学、社会文化運動、女性運動など多方面で活動。作品に漫評「師走の忙しい時期・元旦」、小説「瓊姫」、随筆「離婚告白状」など。

[朝鮮新報 2003.4.7]