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高麗人参余話(1)−不老長寿「生命の根」

 朝鮮民族のバイタリテイを語るとき、その源として我々が好んで食する朝鮮人蔘、唐辛子、ニンニクをあげる人が多い。しかし、唐辛子は外来でありニンニクも原産地ではない。朝鮮人蔘こそウリナラを代表する植物であり、植物の王様であり、朝鮮の伝統薬材である。

 朝鮮人蔘は亜熱帯の済州島を除き朝鮮半島の全地域(北緯34〜43度)と中国満洲地方(43〜47度)、ロシアの沿海州地方(42.5〜58度)で野生の山人蔘として自生していた。三国時代、遼東半島を始め満洲と沿海州地方が高句麗の版図であったことを勘案すると高麗人蔘というのは真に妥当な名前である。草である野生の人蔘が土の中で数十年も腐らず自生し、300年育った物もあるというから信じられないくらいである。山人蔘は適当な水分を保った排水の優れた土地に自生する。歴史的には自然の山人蔘の採取から、林間に日陰を造って栽培する林間日陰栽培に移行した後、今日のように畑で日陰栽培が行われるようになった。

 日本には、天平11年(739)に渤海の使節、己珍蒙により初めて朝鮮人蔘がもたらされたと記録されている.(『続日本紀』)

会津で人参の湯通しをする農家の人

 ところで、縁があって福島県会津地方によく出かけるようになった。会津地方は磐梯山をはじめ美しい山々に囲まれた盆地で夏は暑く、冬は積雪が多い。磐梯山を取り巻く猪苗代湖や裏磐梯など田野の広がる美しい田園地帯である。会津の農村を行くと黒い日除けの寒冷紗で覆われた畑をたくさん見かける。はじめは見過ごしていたが、その畑が朝鮮人蔘を栽培している畑であることが分かりおおいに興味をそそられた。

 江戸時代、朝鮮通信使によってもたらされた朝鮮人蔘をどうにか日本で栽培しようとして18世紀に入り八代将軍、徳川吉宗が全国にお種人蔘(朝鮮人蔘)の栽培を勧めた。苦労の末、日光で初めて栽培に成功した。会津でも藩を挙げて朝鮮人蔘の栽培に取り組み、藩の財政を潤すに至り、十九世紀には清国に輸出するまでになった。

 今日でもその栽培を続けているのは長野、島根と並び会津のみである。一年を通じて畑で朝鮮人蔘がどのように栽培されているのかを畑を通りながら実際自分の目で見ることができた。初めて見る朝鮮人蔘の茎や花、実、それに収穫後の作業など大変興味深かった。昨年は朝鮮人蔘の本場、開城にも足を伸ばした。わが民族の誇りである人蔘の歴史や伝説、栽培、薬効、利用などについてこれから見ていきたい。

 ウリナラで人蔘は数千年前から各種疾病の治療予防などに広く使われてきた。人蔘は神秘なほどの薬効があって「神草」、肥えたこの地の精気を帯びているとして「土精」、人に血を与えるとして「血蔘」とも呼ばれた。また、人蔘は「生命の根」とも呼ばれ、それを食べて老人が若返った、力持ちになった、神仙になったなど優れた薬効にまつわる伝説がたくさん伝えられている。ちなみに日本には人蔘にまつわる伝説は見当たらない。深い森の中に自生するこの霊薬を探し出すのは容易なことではない。そのためか人蔘は人の目を避けて一日に数百里も位置を変えると言う。正直な人にだけ目にとまるとか、親孝行の息子にだけ神仙が人蔘のありかを教えてくれるという話などの伝説も伝えられている。これらの伝説からウリナラでは人々が遠い昔から人蔘を身近に使ってきたことがうかがえる。

南でもらった朝鮮人参の土産

 昔々、黄海道南郡某村に仲睦まじい夫婦が住んでいた。しかし二人にはいつまで経っても子宝に恵まれなかった。夫婦はどうしても子宝に授かりたく四神に祈祷した。百日が過ぎたある日、二人の前に白髪千条の仙人が現れ『お前たちの思いが奇特だから願いをかなえてあげよう』と言っては姿を消した。二人が仙人の消えた方向を見あげるとそこには人の形をした草の根っこがあった。この根を大事に家に持ち帰り丹精込めて育てたところだんだん人の形に似た大きな根になったのでそれを食べたところ、いくらも経たず婦人が妊娠し、元気な貴童子を産んだという。

 中国、梁の医学者、陶弘景(四五二〜五三六年)が書いた中国最古の薬学書「神農本草」の「名医別録」には高麗人が創ったという人蔘の歌「高麗人蔘賛」が掲載されている。

 三つの枝に五つの葉 陽に背を向け陰に立つ
 我を求めに来るなら シラカンバの木陰に来たれ
 (三椏五葉 背陽向陰 欲来求我 椴樹相尋)

 この歌には、三つの枝に五つの葉をつけた人蔘の形態と陽を避け陰に生息を求める生理学的な特徴、そしてシラカンバやシナノキ等の広葉樹の陰の肥えた湿土に自生する生態学的特徴などが見事に表現されている。

  瑤光星散りて/人蔘をなす/廃江准山(はいこうじゅんざん)/Vの祠(とくのほこら)/すなわち瑤光明ならず/人蔘生ぜず(瑤光星散/為人蔘/廃江准山/V之祠/則瑤光不明/人蔘不生)

 その昔、北斗七星最下端の星瑤光星が地球に散って人蔘になったと中国の漢詩は詠う。(洪南基、神奈川大学理学部非常勤講師)

[朝鮮新報 2003.4.7]