山あいの村から−農と食を考える(8) |
「大地」のめぐみで生きる「顔」 老人クラブの総会に招待された。部落会長は来賓として毎年招かれて「祝辞」とやらを申し述べねばならないのである。 私の部落は37世帯、その中で老人クラブの会員は33名。おおよそ70歳になればこの会への呼びかけがある。しかし私の数えではその当該者はほかに10名ほどいるようなのだが、募集をしても「まだ若いので」といって加入してくれないと会長さんはいう。 会員の最高齢者は97歳。それが2人いる。ほかに90歳以上の方が5人いる。このうち夫婦揃っているのが2組。なんと目出たいことか。 ところで残念なことにこの村には子どもが少ない。小学生と中学生を合わせても6人だけだ。私の子どもの頃には数名もいてにぎやかな村だったが今はそうした状態なのだ。 日本の農山漁村はどこもみなこうした状況にある。このことを発展と呼べばいいのか、衰退といえばよいのか、私にはわからない。なぜならば、数人の小学生がいたときよりも今のほうが豊かな面がいっぱいあるからだ。 どこの家にもテレビがあり、ビデオがあり、電気洗濯機があり、乗用車が2台も3台もある。風呂は石油で沸かし、煮炊きはプロパンガス、室の暖房は石油か電気、都市と何ら変わらぬ生活資材でくらしが埋めつくされているからだ。 一方、豊富に「物」があっても「人」がいなく、しかも、未来に生きる若い人がすごく少ない。これでいったい豊かなくらしといえるだろうか、と頭をかしげる。そしてこの山あいのどこに問題があって若い人たちが少なくなってしまったのだろうと考えさせられる。 いったい百歳に近い長寿のこの人たちは、何を食べ、どんな働きをして健康を保ってきたのだろうか。けっして肉や、魚などを豊富に食べてなどはいない筈だ。大豆や粟、そばなどを食べ、大根と菜葉、馬鈴薯などなど、それにわらびや、きのこなどの山菜を多く食べ、3つの戦争の苦しさに耐えてきた人たちである。それでいて、この元気さがあることを、この世の若い世代の人たちはどう見てどう考えているのだろうか、などと思い浮かべながら私は大先輩たちの顔をつぶさにみつめた。 ひとりひとり、大先輩たちの顔を見ているとそれには「大地」の色がある。この土地に生え、育てられた米をはじめ、野菜などを食べ薪や木炭などで煮焼きし、いわばこの土地、この大地でとれた「生もの」で生きてきた歴史が顔面に深く刻まれている。だから元気なのだと教えられる。 ところが「繁栄」の中で育った人たちはこの村で育っていながらそうではないのだ。この国の大地の恵み、自然の資源で生きていないのだ。いや、生かされなかったのだ。だから米のうまさも、味噌汁のうまさもわからずにいる。そして、さらに自分がわからないものだから子どもにもそれをつくってやれない。それでいとも簡単にこの村の田んぼも畑も山も川も捨てて村から出てゆけるのだ。 私はこの村の果ては、この国の果てに連なるように思えてならない。先日東京の池袋の駅から、サンシャインまでの間を歩いたが、そこにはたしかに多くの人がいて、若者がいて、はなやいでいた。が、ここの老人クラブに集まる人たちのような「大地の顔」がない。みんな浮きたち、着ているものも、はいているものも、食べているものもこの国の大地のものではなく、よその国から渡ってきたものでつつまれている。だからそのくらしは大地から遊離していて、身だけでなく、心もよそのものになっているのだと私の心には映る。そしてこれをグローバリゼーションというのだろう、などとひとりつぶやきながら人混みの中をわけるようにして歩いた。 私はこの頃東京だけでなく、山形市街や、仙台などの街に出ても「感動」するものがなくなった。これも年齢のせいなのか、と悲観めくこともあるが、そうでもないような気もする。なによりも町に出ても「うまいもの」がないからだ。 時間の都合もあって私は池袋の駅構内で朝食におにぎりを買って食べた。それがなんとまずかったか。わが家の飯とは格段の差がある。おにぎりだけでなく、東京で食べる食事は、味噌汁も、漬け物も、煮物も、みんなわが家のそれよりもおいしくない。だから感動どころか「こんなくらしのどこがよくって人が集まるんだろう」と考えてしまう。さらにこの都市の人たちのくらしをいったい「文明社会の生活」というのだろうか、と疑う。そしてなお、村で生まれた若者たちが、村を去るのは「自主的なもの」ではなく、都市の繁栄を築くことのために無意識的に吸収されているのだと怒りたい気持ちになる。 私は今、この村を果てなくするために老人クラブの人たちの生きてきた歴史と力を借りねばならないと思っている。子どもたちの未来のためにそれがどうしても必要だからだ。(佐藤藤三郎、農民作家) [朝鮮新報 2003.4.11] |