〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち〉 動画作家・羅惠錫(下) |
羅惠錫は絵画だけではなく、詩、小説、戯曲、随筆、評論、紀行文などバラエティに富んだジャンルに挑戦した作家でもあるが、ここでも「人間として生きたい」というアイデンティティははっきり表れている。 18歳のとき書いた「理想的婦人」(学之光・1914)で彼女は、良妻賢母を理想とする女性教育を批判し、時代の要求する理想的女性像について次のように述べた。 「理想的婦人とは…自己の個性を発揮できる自覚を持った女性で、現代を理解できる思想、知識、品性において実力と権力を持ち備えた時代の先駆者であらねばならないと思う」 その3年後に発表した「雑感―K姉さんに与える」(学之光・1917)でも、西欧の例をあげながら、女性も人間として生きることを主張した。これらは女性が持つべき自覚と責任に迫った啓蒙的時論である。 現代女性文学 朝鮮現代女性文学の劈頭を飾った小説「瓊姫」(女子界・1918)と歌詞「人形の家」(毎日申報・1921)で彼女は、束縛から脱け出て人間らしく生きる女性解放を強く訴えた。 「瓊姫」は、封建的な結婚と生き方を拒否する近代的な自覚と理想を持った新女性を描いた小説である。作品の特徴は、封建的因習は家柄が良く、財産のある家との結婚を強要する瓊姫の父に代表される男性ばかりでなく、封建的観念が染み込んだ女性たちの中にもあることに目を向けているところだ。 同時代男性作家の小説に、教育を受けた知識人女性が主人公として登場するものはほとんど無いが、登場したとしても新女性のマイナスの側面のみを浮き彫りにしている。それにくらべ「瓊姫」は、事実性や構成力、人物の性格描写において際立って優れた啓蒙文学といえる。 彼女は日本留学を終えた後も、女性問題に関わる作品を発表し、女性の権利と地位向上に努めた。金一葉との論争「婦人衣服改良問題」(東亜日報・1921)では、朝鮮の伝統美は生かされるべきだが、胸を圧迫する非健康的な面は是正されなければならないと強調した。 男性優位に反発 羅惠錫は封建的因習、男子中心的価値観に立ち向かい、自分の理想とする女性像に近づくために努力し行動した女性であった。当時、大きな波紋を起こした習慣に従わない羅惠錫独特の結婚儀式がそれを証明する。 弁護士、金雨英との結婚のとき彼女は要求した。一生自分を愛すること、絵を描くことを邪魔しないこと、姑、前妻の娘とは同居しない…そして、新婚旅行中、急死した婚約者・崔承九の墓に立ち寄り、碑を立てたのである。これは破格的な出来事として当時小説の題材になった。 彼女は結婚後、自己の経験を通して実感した女性ならではの感情や苦痛をそのままさらけ出した。それは誰もが口に出して言えない社会通念をひるがえす、大胆で「革命的」な発言であった。 時代を先取り 「母となった感想記」(東明・1923)では、妊娠、出産、育児など女性に課せられた重い負担をストレートに語り、それを女性の本分と定める習慣と考え方に疑問を投げかけ、男尊女卑の因習を批判した。 約2年間に及ぶ欧米旅行は大胆で自由奔放な彼女をより刺激することになる。このときの見聞をまとめた紀行文(三千里に約1年間連載)を見ると、欧米人にくらべて朝鮮民族は遅れているという問題意識が強く表れており、自由恋愛を進んだ女性解放、発展した西欧文化の象徴と受け止める羅惠錫が浮き彫りになってくる。 このような彼女の考えは、恋愛、離婚へとつながった。そして「離婚告白状」(三千里・1934)、「新生活に入って」(三千里・1935)のような男女間の問題、家庭内の問題を公の場にさらけ出すに至るのである。 しかし、男性優位社会構造に反発する羅惠錫を社会は受け入れなかった。植民地支配下という時代、男尊女卑の風土の中で彼女の考えは、著しく時代を先取りしたものだった。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授) ※羅惠錫(1896〜48) 進明女高普(1913)を経て、東京女子美術学校を卒業(1918)。美術、文学、社会文化運動、女性運動など多方面で活動。作品に漫評「師走の忙しい時期・元旦」、小説「瓊姫」、随筆「離婚告白状」など。 [朝鮮新報 2003.4.12] |