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〈生涯現役〉 知的障害者と歩む人間探求の道釋弘元さん

釋さんの80歳の祝いと夫人の還暦祝いを開いてくれた故郷の家族たち(2002年4月)

 東京から高速バスで約2時間。富士山麓に広がる美しい芝桜や新緑の緑がまぶしい。静岡県富士見市に知的障害者を第二本尊とする宗教法人弘願寺・聖霊教会の住職であり牧師の釋弘元さんを訪ねた。

 この寺は27日に創立24周年を迎える。釋さんが建立したもので、現在、夫人で僧侶でもある鳳順さん、清僧と呼ばれる知的障害者3人と富岡大修師が求道を共にしている。

 若い頃から仏の道、人間探求の道を求め続けてきた釋さんが、「仏はどこにいるのか」という大疑団をいだいて、全国行脚の途に立ったのが20数年前。

 「宗教団体の教祖、教主といわれる人に会ったのは200人以上。さらに韓国での3週間で8万4000回に上る『五体投地』、日本でも寺院だけでなく、全国36カ所の刑務所、身障者施設の慰問も続けた」。しかし、釋さんの心は満たされず、もどかしさが消えることはなかった。そんなときに、出会ったのが奈良のある少年だった。

 「知的障害者の施設で暮らす16歳の少年が、私の生き方を決めた。その少年が部屋にあった鉢植えの花を指して『お坊さん、花が笑っている。僕は、あの花をもっと大きくしてやりたい』と言って、花の茎を持って引っ張ろうとする。私は驚いて『それを引っ張ると花が折れて、死んでしまうよ』と言った。これだけの会話だった。私は雷に打たれたような衝撃をうけた。こういう純粋な心を持った人たちと一緒に暮らすことによって、自分は第一本尊のイエス、釈迦、老子の世界に入ることができるのではないか―」。以来、知的障害者を第二本尊として迎え、求道の師弟として歩んだ道。

 「私は日本の植民地支配によって、ふるさとも家族も長い間失った人間だ。清僧といると母の胸に抱かれたような安堵感を覚え、心が洗われていく思いがする。宗教者の真の役割は生命の尊厳を守りぬくこと。釈迦にしても、キリストにしても、社会の中で最も弱い苦しむ人々に寄り添い、救ってきた。しかし、今も障害者への差別は根が深い。肉親にすら省みられない人たちの何と多いことか。私はこの人たちと共に生きて、命ある限り彼らを守りたい」と熱く語る。

富士の霊峰を白頭山に見立てて

イラクへの侵略に抗議し、イラクの子どもたちの未来を祈って雨の中で絶叫(4月2日、国会議事堂前で)

 弘願寺をなぜ、富士山麓に建立したのか。高速バスから見える頭に根雪を冠った富士山を見ながら、記者は「きっとそうだろう」と確信めいたものを感じていた。それは釋さんが、朝鮮北部の港町・城津(金策市)で生まれ、白頭山の麓、茂山で育ったのと大いに関係しているのでは、という思いがあったからだ。釋さんは記者のひらめきをあっさり認めた。「民族の聖山、白頭山の息吹を感じて育った私にとって、白頭山を思い描くだけで、涙がとめどなく流れるのを押さえることはできない。私にとって、母であり、命そのもの。故郷を離れて70年になるが、一日とて忘れたことはない。今すぐには帰れない故郷のすぐそばにいたいという願望が、この地に寺を建立させたのだ」。

 釋さんは1922年生まれ。漢方医の父のもとで、何不自由ない幼年期を送っていた。目の前に広がる白頭の秀麗な山容。そして満開の朝鮮つつじ。遅い春を待ちかねて広い野原を駆け巡る子供たち。これが釋さんの原風景である。

 「幼い私を膝に抱いた母がよく話してくれたのは、独立運動のこと。『白頭山に金日成将軍の率いるパルチザンがいる時は、天池の水は鏡のように穏やかで、空は天高く晴れ渡る。しかし、日本の守備隊が来ると、白頭山にたちまち雷鳴が轟き、激しい雨に見舞われる』と」

ソウルの光化門前での反戦デモにも参加した

 釋さんが生まれた頃は、韓国併合から12年が経ち、日本の武力支配は朝鮮北部の小さな町の隅々まで及んでいた。「(日本人)巡査が来るよ」と言えば、たちどころに泣く子を黙らせることができた。

 やがて、普通学校へ。そして、ある事件に遭遇した。「国史の時間に、日本人校長が伊藤博文の暗殺事件についての説明の一文を読んだ。―満州ハルピンにて安重根が群衆の中より博文公に発砲―。その時、『アジョッタ(良かった)』と後列の生徒が机の下で手を叩きながら、甲高い声で叫んだ。それにつられて、教室のあちこちで、『アジョッタ』『アジョッタ』の声が上がった」。10歳にも満たぬ釋少年に、民族の抵抗の精神が刻まれた一瞬であった。

 父の医業は繁盛し、自費で簡易学校を創立し、里長にもなった。そんな父からの厳命によって、釋さんの運命はやがて暗転する。

 「男尊女卑の儒教の名残りなのか、やっと11歳になったばかりの私は7つ年長の村の娘と結婚させられた。それが嫌でついに家出して、満州に渡って勉学の道を歩むことにしたのだ」

満州、ソウル、東京、ニューヨークで勉学

 思えば遥かな過客の旅はここから始まった。その後、満州や東京などを転々として苦学。解放後はソウルの檀国大学を卒業。台湾政治大学、東京大学大学院で宗教学を学んだ。しかし、ソウルに戻った途端、KCIAにスパイ容疑で連行された。すべての職を失い、屋台を引いて、当座をしのぐことに。一年後に潔白が証明され、明知大学教養研究所の部長に就任した。続いてある高僧から政府高官に推挙された。

 しかし、これをきっぱり断って、政治家の道を捨て、出家した。そして71年、来日し駒沢大学の仏教学博士コースに学ぶ。以後、居を日本に移す。

 「植民地時代に受けた民族差別。家族との幼い日の別離。南北の分断の悲劇。これらが脳裏に浮かんだ時、私はむなしかった。私は自分の幸せだけに生きている、何という利己主義的な生き方をしたのかと。私は自分自身が救われ、そして人を幸せに導く人間になろうと固く決意した」

 80年、弘願寺を建立し、さらに89年にはニューヨークへ飛んで、神学大学に学び、牧師となった。そして、01年、ついに懐かしき故郷へ。じつに約70年ぶりにその懐に抱かれたのだった。

 「これで私の放浪の旅にもやっと終わりが来た。金正日総書記は『我々式に生きていこう』と語っておられる。私もこの言葉をはじめて祖国への旅で知って、心から共感するものがあった。人々は貧しさに負けないで、明るく楽天的に生きていた。故郷のために何にもできなかった私だったが、祖国の人々の愛に触れ、ただ熱い涙が滂沱のごとくあふれ出た」

 今、釋さんは清僧たちと共に福祉寺としての寺の面貌をより充実させたいという夢を語る。「同胞たちにも是非、ここに来てもらいたい。もし、悩みを抱えている同胞がいたら、共に分かち合いたいと思う」

 数年後には、同じような福祉寺を白頭山麓に造りたいと情熱を燃やす。もちろん、その時は夫婦で故郷に骨を埋めるつもりだと、破顔一笑した。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2003.4.27]