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〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち〉 作家・白信愛

 白信愛は慶北永川の巨商の娘に生まれたが、封建的な父は彼女の並々ならぬ向学心に理解を示さなかった。

 5歳で漢文を習いはじめ、幼少の頃から兄の書棚にあった古今の小説を読みあさり、「早熟な子」と言われた。普通学校(10〜14歳)卒業後、15歳で母校の夜学の先生(1年有余)となる。農村女性への啓蒙の意欲に燃えてのことだった。

独立運動に参加

 1924年(16歳)、大邱に新設された道立師範学校教員講習科に入学し、翌年卒業後、永川の普通学校(一家の大邱転居後は慈仁普通学校)の教員に赴任する。大邱で彼女は初恋と失恋を体験した。失恋の痛みに堪えかねて、彼女は教職を中途で放り出し、1926年冬、親友・李洪南女史の忠告も聞き入れず、ソウルへ飛んで行くや社会主義色の濃い女性同友会、女子青年同盟に加入、独立運動へ身を投じて、ついには日警の「要視察人物」となる。

 1927年(19歳)、に女性運動の遊説巡廻中、たまたま金泉で詩人白基万とともに講演会に立ったこともあった。美貌で積極的な活動家の彼女は世の多くの男性から関心の的となったようだ。

 同年、彼女は「社会主義運動の総本山である革命直後のロシアに憧れ、ウラジオストックへと飛び立った」(李潤守「種を植えた人びと」1959)。のちに、小説「コレイ」(1933)で当時の悲惨な経験の一端を発表(だが「コレイ」は朝鮮人への蔑称)、大変な辛苦をなめ、必死の想いでふたたび国境を越えて来なければならなかった。(逮捕され、ひどい拷問を受けたとも言われる)

 そしてようやく愛する母のもとへ帰って来はしたが、日警のきびしい追及を避け、地下に潜った形となったという(前書、李潤守)。この時初恋の人と密会を重ね、また彼の助言を得て、デビュー作「私の母」(小説、1929、朝鮮日報新春文芸に当選)を出した。

 1930年、父が釜山海運業者子息との結婚を迫ったが、これに逆らい向学に燃えて白信愛はすぐさま訪日。日本大学芸術科に籍をおき、一時は演劇にも傾倒した。チェーホフ作のヒロイン役で舞台に立ったが、成功はしなかったようだ。

不幸な結婚生活

白信愛の一家。写真右側の少女が信愛、その横が母。その後が父

 学費困難のせいもあったが、父と別居中の母の長文の手紙にほだされ、1932年帰国。その翌年、母の懇願を受け入れ、銀行員李氏と結婚もした。

 結婚披露宴の席上、余興で新婦が歌のかわりに自作詩を詠むこととなった。次に来賓たちの要請で新郎がその詩を解釈したのであったが、その当否を問われ、新婦は率直に「否」と答えた。それで新婚の初夜早々「なぜ女だてらに、夫となる男を大衆の面前で恥をかかせたのか?」という詰問がもとで、2人はとうとう一晩中大喧嘩となってしまった。結局、気まずい結婚生活3年を経て、離婚。

 その後、1938年の秋、彼女は商用目的の兄基浩(新幹会と関係)とともに約一ヵ月間上海におもむいたが、日警の尾行がつづく中で「亡命客ともども力を合わせ、民族運動に貢献」(前書、李潤守)したと言われる。「美貌と理知的な気品」をそなえ、「政治的手腕」にたけた「女王」として人気絶大であったらしい。彼女は歌も上手で、また古典舞踊の名手でもあった。かねがね文友らと酒も共にしていた。

 帰国後、開闢社の女性記者として活躍する一方、代表作「赤貧」(1934)以後多くの短編小説を手がけて来て、ようやく順風のもと新しい文学創造の情熱に燃え立った矢先のことである。

 「この頃、胸がちょっとおかしいわ!」と口癖のように言うようになった。膵臓がんであった。

 初恋の痛手と抗日戦線のきびしい風雪の中、無限辛苦の一路を歩いた彼女だが、ようやく人生の花が満開期にさしかかろうとした1939年6月25日、涙する母や初恋の人らに見守られ、31歳の若さで、ついに散って行った。

 巨商の父と封建的家父長制の旧習に反発し、つねに母や果樹園(父が経営)で働く貧農の弱き側に立って、白信愛はおもに流浪と飢餓にあえぐ貧農(とくに女性像)の生活を告発した約20編のリアリズム小説(ほか約30編の随筆)を精力的に書き残した。(金学烈、朝鮮大学校、早稲田大学講師)

※白信愛(1908〜39) 若くして独立運動に参加。1932年、日本大学中退。のちに開闘社記者のかたわら小説執筆。作品に「私の母」、「コレイ」、「赤貧」、「落伍」、「貧困」、「行くのはよせ」など。

[朝鮮新報 2003.5.19]