福井、富山「越の国」めぐる−上田正昭京大名誉教授と朝鮮文化を訪ねる会 |
上田正昭京都大学名誉教授指導による第49回朝鮮文化をたずねる会「越の国に渡来文化をたずねる」(主催=日朝友好促進京都婦人会議)が16〜18日、2泊3日のコースで行われた。今年30周年を迎える京都婦人会議は、発足当時から朝鮮の歴史、文化、生活を学ぶためのさまざまな取り組みを行ってきた。その一環としての朝鮮文化をたずねる旅では、奈良・法隆寺をはじめ栃木・日光、鹿児島・桜島などゆかりの地を訪ね歩いた。今回は上田名誉教授とともに37人の参加者たちがバスに同乗。福井県清水町の小羽山30号墓、丸岡町の高向の宮跡、富山県小矢部市の桜町遺跡、高岡市の桜谷古墳、氷見市の柳田布尾山古墳、大境洞窟遺跡、富山市の杉谷古墳群4号墓など、北ツ海(東海=日本海)の古代文化を大きく開かせた「越の国」をめぐった。 京都市内を抜けてしばらく行くと、車窓の外にはのどかな水田の風景が広がる。波打つ麦穂、彼方に見える神々しい山々…。一路、福井県清水町郷土資料館をめざし午前11時30分に到着。まず一行は、弥生時代後期後半(2世紀末頃から3世紀初頭頃)につくられた巨大な王墓、小羽山30号墓を見学した。大きく発達させた四隅突出型墳丘墓は、日本では出雲をはじめ日本海側で発見されているという。 説明に立った上田さんは、北ツ海文化圏にあたえた高句麗の影響について言及。鴨緑江の南側、ソサングン レンブリ2号墳の積石塚(紀元前1世紀頃に作られたと考えられる)の例をあげながら「四隅突出型のルーツは高句麗の影響ではないかと考えられる」と話した。 文献によると、日本海を通じ最初に入ってきた文化は、欽明天皇の時代(570年)、越中(北陸・富山)に高句麗のものが入ってきたのが最も古いとされている。高句麗滅亡後、渤海が誕生(727〜911年)するが、渤海の正式使節はすべて日本海から上陸した。日本海は当時、朝鮮や大陸の文化を取り入れる貴重な玄関口となっていた。 しかし、明治28年(1895年)頃から日本海側地域は「裏日本」と呼ばれるようになり、33年頃からは「差別の対象とされてきた」と、上田さんは指摘する。 小矢部市の桜町遺跡。縄文時代の優れた文化遺跡が残されている。中でも高床式建物の柱材と考えられる貫穴や浅穴とよばれる加工をした木柱の発見は、それまで米作りの技術とともに弥生時代に日本に伝えられたと考えられてきた高床式建物が、定説より2000年も古い縄文時代にすでにあったことを証明した。 上田さんはこうした事実を踏まえ、「縄文時代は遅れていた」という歴史の見方、考え方を改めなくてはならないと語った。そして、「古いものは悪く、新しいものは良い、と単純にいえるのか」「世の中は着実に『進歩』していると言えるのか」と参加者に問いかけた。 上田さんはまた、中央を前提とした地方論にも異論を唱える。地方分権について「中央との関係に上下があり、対等ではないのが問題」「中央思考で歴史を見てはならない」と指摘。そして、自身が20年ほど前から使い出したという「民際」について説明した。 「国際という言葉があるが、これは国と国との関係を表したもの。国があっての人ではない。国より先に民族があり、民衆がいる。民衆と民衆の関わりこそが大切だ」 30年の間に49回行われてきた日朝友好促進京都婦人会議の朝鮮文化をたずねる旅。日本の中の朝鮮ゆかりの地を訪ね歩きながら、参加者たちは古代の朝鮮と日本の関わりについて学んできた。 上田さんは、30年間の歩みを振り返りながら「歴史を1元的に見てはならない。単眼で見るのでなく、複眼で見る必要がある」と指摘し、日本の歴史についても朝鮮や中国、沖縄との関わりの中で見ていく必要があると話した。 主催者代表の末本雛子さんは「30年も前からこの活動を行ってきて、昨年の9月17日以降、あまりにひどいマスコミ報道のあり方に無力感に苛まれていたが、今回の旅にたくさんの人たちが参加してくれてうれしく思う」と話し、参加者の濱田仁さんは「もっともっと、お互いに相手の国や人々を尊敬し、愛するようになれたら世界がもっと良くなるのではないかと思う」と話していた。(金潤順記者) [朝鮮新報 2003.5.20] |