東アジア史の視点から〈6〉−平壌・王倹城は大同江河口か |
「史記」朝鮮列伝を読む 昨年(2002年)の11月20日、「楽浪文化と古代出雲」というテーマで「環日本海国際交流会議」が松江市で開催された。意義深く画期的なことであった。というのは楽浪文化と古代出雲との関係が追究されるだけでなく、楽浪郡と楽浪文化についての解釈、見解が日本、南北朝鮮、中国の研究者によって初めて一堂に会して提示され、討議されたからである。教訓はやはり、抽象的で断定的な前提や見解を排除し、具体的にテーマを設定し、検証することであった。 漢の武帝による古朝鮮侵攻と楽浪郡設置と関わって私は、以前から根本的な疑問を持っている。それは漢の植民地であるとされる「平壌楽浪郡説」という「動かすべからざる前提」が前漢の史家である司馬遷の「史記」朝鮮列伝の解釈に求められているからである。この根本的な疑問は、考える度にいつも私を憂うつにさせる。それは「史記」朝鮮列伝についての明治の先学・関野貞、今西龍以来変わることなく今日まで継承され、この「不動の定説」が学界の「通説」として疑われていないからである。
今西龍たちは「史記」朝鮮列伝の記事に現われる「列口」を今日の平壌市の中心部を流れる大同江河口であると断定し、大同江は「列水」であり、現在の平壌市の高句麗時代の平壌城が「王倹城」であると解釈した。 こうした断定と解釈を前提にして王倹城によった朝鮮王右渠は1年間にわたって戦ったが破れ、古朝鮮は滅亡して今日の平壌一帯に漢の楽浪郡が置かれ、それを治める郡治所が平壌王倹城に設けられたと主張したのであった。 「史記」朝鮮列伝の次の記事を見てみたい。「樓船將軍將齋兵七千人先至王倹右渠城守窺知樓船軍小即出城撃樓船樓船軍敗散走」(漢水軍の「樓船将軍は齋の兵7000人をひきい、先に王倹城に至る。右渠は城を守って樓船の軍が少ないことを探り、即城を出て樓船を撃つ。樓船の軍は敗れて散走する」) この記事は漢の武帝が前109年、水陸両軍によって王倹城を攻撃する作戦をたて樓船将軍の楊僕が率いる水軍をして山東半島から海を渡って列口(河口)に向かわせ、朝鮮を討とうとした記事の中核部分である。この記事は朝鮮王の右渠が王倹城によって漢水軍を列口において敗走させたことを語り、王倹城が一年間の激戦の後に、朝鮮軍内部の裏切りによって落城したことと武帝が朝鮮を滅ぼして楽浪郡などの四郡を置いたことを明らかにしている。
「史記」朝鮮列伝の記事についての今西たちの解釈には見逃すことのできない誤りがある。原文に従えば、齋の兵をひきいた樓船将軍が王倹城に至ったので城を守っていた右渠王は、即城を出て樓船を討ったので樓船軍は敗れて散らばって逃走したとあるから列口(河口)に王倹城があることは間違いない。ところが今西たちが言う平壌城即ち王倹城であるとすれば河口(列口)には無く、はるか上流の平壌中心部に所在している。これは矛盾である。「史記」を書いた司馬遷が間違っているか。今西たち先学が正しいかである。 私はこの矛盾を検証するために平壌市の平壌城址牡丹峰にある大同江の船着き場・転錦門から大同江の列口(河口)を目指した。西に向かう大同江の流れは古代の昔から基本的には変わっていない。河口である南浦港までは直線距離で70数キロ、沿岸をたどれば80キロ以上となる。河口周辺は平野でたおやかな山々と丘陵がめぐっている。そこには王倹城が築かれた峻険な場所も遺跡もない。 「史記」が伝える「列口」には王倹城があるはずであるが、河口にはなく、平壌城は遥か70数キロの上流にある。健全な常識では平壌城は河口にあるとはいえない。仮に平壌城を「史記」が語る王倹城としても、漢の樓船軍が河口に侵入した時、70数キロからそれを見てすかさず古朝鮮軍が即城から討って出て敵軍をけちらし、直ちに城に帰るということは不可能である。「史記」朝鮮列伝は軍事を記録しているので正確であるという専門家の評価は重い。「史記」朝鮮列伝の記事を恣意的に解釈して「動かすべからざる定説」とすることはできない。(全浩天、考古学研究者) [朝鮮新報 2003.5.20] |