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〈生涯現役〉 川崎高麗長寿会の名物歌姫−申貞玉さん

 初めて申さんに会ったのは、1年ほど前、とある同胞の居酒屋で。体の奥底から絞り出すように歌う朝鮮のメロディーが、何とも言い難い情感を漂わせていた。

 もう1回は3月の受験資格をめぐる東京でのオモニたちのデモで。しのつく雨の中を若いオモニたちの先頭で歩く申さんの力強いシュプレヒコールがこだました。「日本政府は民族学校を差別するな!」。申さんの脳裏には60年ほど前、植民地の民として、人間扱いされなかったあの悲惨な体験が重なっていた。「孫の代まで差別を続けるのか。絶対許すものか」。怒髪天をつく怒りがデモに向かわせたのだった。

2歳で渡日

 「歌って、踊れる名物ハルモニ」と言えば川崎高麗長寿会副会長の申さんのこと。その記憶は、5〜6歳の頃、大阪・桃谷から始まる。父の故郷は済州島内都里、母は慶尚南道釜山。2歳の時、父の徴用先の大阪に母に背負われて釜山から渡ってきた。

 「アボジは戦闘帽やネジなどを作る軍需工場を経営していた。長女の私を女子商業に通わせ、食べるには困らなかった」

 しかし、平穏な暮らしは、しのび寄る戦時色によってかき消されていった。学校の歴史の時間に「朝鮮がいかに劣等民族か」を絶叫する教師たち。「それを聞く度に、悔し涙が溢れて…」とまた、目に涙。

 女子学生が挺身隊として軍需工場に強制動員されると、申さんは、父の下で働くことに。そんな頃、すでに世界的な名声を馳せていた朝鮮の舞姫・崔承喜の公演に母がこっそり連れていってくれた。「白いチョゴリのこの世のものとも思えぬ気高さ。60年の歳月を経てもそのシーンは瞼に焼きついている」。少女の心に生涯「朝鮮民族の気概」が鮮やかに刻みつけられたできごとだった。

 敗戦の1年前、17歳で父の工場で働く5歳上の裁断師と恋に落ちた。父の猛反対を押し切った末に2人は結ばれた。コップに酒1杯飲めぬやさしい夫は、やがて豹変していった。44年、疎開先の広島で長女が誕生。敗戦前後の混乱の中、大阪、青森を転々とした。

 夫の放蕩で家計は苦しくなるばかり。49年、新天地を求めて川崎へ移り住む。子宝にも恵まれた。44、46、48、50、52、54、56、58年。これが子供が生まれた年である。末っ子だけが男の子だった。病の夫と子供8人を抱えた申さんは、死に物狂いで働いた。

 「ドブロクやしょうちゅうを作り、水枕に入れて、朝早くから野毛や東京の巣鴨の屋台に下ろして、帰ってきて、家族10人分の食事を作り、今度は寒空の中でパチンコの景品換えもした」。妻の細腕に頼る一家を、戦後の貧しさは長くとらえて放さなかった。

50人の一族束ね

 60年、夫が亡くなった。申さんはまだ32歳。長女が神奈川朝高1年生になったばかり、末っ子は2歳。「どんなに苦労しても、子供たちを朝鮮学校に送るんだと思った。他の道を考えたことなどなかった」ときっぱり。昼も夜も働く日々。そんな申さんは、寸暇も惜しまず、川崎朝鮮初中級学校に設けられた成人学校でウリマルを習い始めた。「生活に追われウリマルを習う機会もなかった。だから、成人学校で読み書きを教えてくれると知ってどんなにうれしかったか」。

 ウリマル習得後は、川崎初中の教育会理事として、学校の財政安定のために心を砕いた。その傍ら、女性同盟川崎支部舞踊サークルを結成、朝鮮舞踊の練習に汗を流した。「せわしい日常の中で、同胞たちとの触れ合いが、私の力の源だった」と当時を懐かしむ。夫を亡くした若い妻が舞踊など、という家父長制から来る風当たりもなかったわけではないが、芯の強さと底抜けの明るさで女一人、逆境を切り開いてきた。

 すでに一族は50人を越える。我が子8人はもちろん22人の孫は全部朝鮮学校へ。曾孫10人の成長にも目を細める。孫たちは卒業後は教員や朝青、「ハナ」などの専従に育ち、ハルモニによろず相談を持ちかけてくる。それにメールで返事を打ち返すのが申さんの喜びでもある。

 20世紀に故郷から根を奪われたが、たゆみない献身によって家族を支え、地域同胞たちの揺るぎない信頼を得た。来月故郷訪問で亡夫の眠る済州島へ。どんな苦難も笑顔に包む大らかな愛。「民族を守って生き抜いてきた」その歩みは、故郷の人々の祝福を受けるに違いない。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2003.5.26]