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〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち〉 女性雑誌編集者・金一葉

 金一葉は、1920年代に小説、論説などを通じて女性解放を主張した第1世代女性作家であり、強靭な精神力と行動力でついには尼僧の世界に入り、社会に大きな波紋を投げかけた新女性である。

 1896年、平壌郊外の龍岡郡で牧師の長女として生まれた彼女は、貧しい生活ではあったものの教育熱心な母親のおかげで、9歳で救世学校に入学した。だが、彼女は幼くして4人の弟妹をすべて失う悲しみを味わうことになる。

 12歳のとき、その悲しみを書いた「妹の死」(1907)は、新詩の開拓者として知られている崔南善の「海より少年に」(1908)より1年先に発表された自由詩として注目されている。

 やがて14歳のときに母を亡くし、母方の祖母の助けを得て梨花女子専門学校に入学するが、父も亡くなり17歳にして天涯孤独の身となった。

「新女子」創刊

 3.1独立運動のとき彼女は、自宅の地下室でビラを謄写し配布したという。ついで1920年3月、朝鮮最初の女性雑誌「新女子」を創刊し、その主幹を務めた。

 創刊号に載せた「新女子宣言」で彼女は、男女平等を主張するとともに女性の自覚をうながした。雑誌には読者投稿欄を設ける一方、詩、小説、随筆、日記など文芸欄にも力を入れ、翻訳作品も紹介した。

 彼女はまた、週1回ずつ「青塔会」を開き、新しい思想と文学について討論し、雑誌の構想をまとめた。この席で彼女は「人間は生まれたときから自由である。自由恋愛、自由結婚、自由離婚は神聖なことであり、これを禁ずるのは後進的弊習にほかならない」と主張した。

 しかし「新女子」は、障害者でありながら、雑誌の販売、普及など献身的に助けてくれた夫、李魯翊との離婚によって発行が中断することになる。離婚の理由は、夫が最初の結婚で義足をした障害者であることを隠し、それを知った新婦が逃げていった事実を知ることによるショックであったという。

 このように「新女子」は5号を予告したまま4号で廃刊になったが、雑誌を通して自由恋愛を支持し、特に封建的家父長制による社会規範を全面的に批判し挑戦したことは、新しい女性解放思想として社会に大きな波紋を起こした。「新女性」という流行語もこの雑誌から生まれた言葉である。

 しかし、植民地統治下における当時の社会は彼女の論理を、行き過ぎた急進的なものであると眉をひそめた。社会はこの「盲目的な西欧化」に走る自由主義女性解放思想に、拒否感と不安感を少なからず抱いていた。

仏教の道へ

 離婚した彼女は日本へ留学、東京の英和学校に入った。彼女の雅号は、当時日本にいた李光洙に宛てた許英肅の恋文を彼女が代筆したことからはじまった。その文章に賛嘆した李光洙が、日本の樋口一葉のようになるようにと金一葉と名づけたという。

 帰国した彼女は、新聞や雑誌に詩、小説、随筆、評論を寄稿し、女性解放思想を鼓吹した。また、女性の社会的活動を制約する服飾改革を唱えた。

 「東亜日報」(1921)紙上で羅惠錫と衣服改良について論争を繰り広げるきっかけをつくったのも、彼女の勇気ある主張からである。

 その後、ドイツ留学を終えて帰国した青年と恋愛、修道生活に入ることとなった彼との別れがきっかけで、仏教への関心を深めるようになる。こうして1927年には韓龍雲とともに月刊誌「仏教」の主要な寄稿者となり、やがて文芸欄を担当、自らの作品を多数発表した。

 この間、崇実専門学校教授(ハ・ユンシル)と約2年間幸福な生活を送った彼女は、僧侶出身の夫に頼って本格的に仏教の勉学に熱中した。そして1933年には出家して修徳寺の尼僧となり、1971年76歳で入寂した。

 修道生活をしながらも彼女は、創作を続け入寂するまで筆を絶たなかった。しかし、尼僧となった彼女の女性観は変わった。男女は生まれながら性的相違を持っている。これを生まれながらの運命として受け入れる。これが彼女の結論であった。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授)

※金一葉(本名:金元周 1896〜1971) 三崇普通女学校、梨花女子専門学校を経て東京の英和学校で学ぶ。1933年出家して尼僧となる。著書に「青春を燃やして」、「ある修道者の回想」など多数。

[朝鮮新報 2003.6.2]