市民とともに30年−朝鮮文化をたずねる会の上田正昭京都大学名誉教授 |
上田正昭名誉教授(75)は鋭い人権感覚から在日朝鮮人や被差別部落の問題に積極的に関わり、その問題意識から、従来の学統を総合する独自の方法で研究を大成した。古代朝鮮、南島文化、神祇と道教、日本神話、地域史、部落史、芸能史にまたがる多大な業績をもつ。 そんな上田さんのもとに元京都市議会議員である故・末本徹夫氏と妻の雛子氏が訪ねてきたのは1974年の春先だった。 前年12月14日、日朝友好促進京都婦人会議を結成したので、顧問として協力してほしいとの要請だった。上田さんは快諾し、朝鮮史勉強会と朝鮮文化をたずねる会のツアーがスタートした。 朝鮮文化をたずねる会では、「秦氏の遺蹟をたずねて」(75年・広隆寺、蛇塚)、「南山城・高麗氏の足跡めぐり」(76年・蟹満寺、高麗寺跡、泉橋寺)、「大和飛鳥の寺々 飛鳥寺をたずねて」(77年・飛鳥寺、橘寺、甘橿丘、板覆宮跡、酒船石、石舞台古墳、欽明天皇陵)などのツアーを企画。49回目を迎えた今年のツアー「越の国に渡来文化をたずねる」(5月16〜18日)では、北ツ海(日本海)の古代文化を大きく開かせた北陸地方の越の国をめぐった。 歴史に興味を持ちはじめたのは中学2年生の頃だという。第2次世界大戦の最中、発禁書だった津田左右吉の「古事記及び日本書紀の新研究」を目にしたのがきっかけだった。 「学校の授業とはあまりにも内容が違うのでショックを受けた。歴史とは何か、この書との出会いが私の歴史学の芽生えとなった」 1960年代頃からは、古代日本の歴史を考えるときに、アジアを軽視していては見えないものがあることを痛感する。そしてその後は学会をはじめ一般の市民たちにも長年アジアに連動する日本のありようを訴え続けてきた。 「特に朝鮮半島との関わりについては、軽視したり、無視したりしたものが多い」と上田さんは指摘する。 「朝鮮半島と古代日本との関係はきわめて密接なものであった。今回のツアーで見学した四隅突出型墳丘墓は、高句麗の影響を受けたものと考えられる。古代の人々は北ツ海(日本海)を通じて、高句麗や渤海の人々との交流も深めていた」 20年ほど前から上田さんは「民際」という言葉を使ってきた。 「国際という言葉は国と国との関係を示したもの。国があっての人ではない。国より先に民族があり、民衆がいる」 この言葉には「民衆と民衆の関わりこそが大切」と考える上田さんの想いが込められている。 「あらゆる国の政権は交替する。永遠に続く政権はこの世に存在しない。国家の利益を第1に考える『国際』には限界がある。だからこそ民衆と民衆の交流が何よりも大切なのだ」 今まで朝鮮には、社会科学者協会などの招待を受けて3回訪れた。1980年8月の初訪問時には、外国人としては初めて高句麗の文化遺産である徳興里壁画古墓や定陵寺跡などを見学した。共和国の研究者たちと発掘調査の成果をめぐって平壌で大討論会を行ったこともある。 国家間の関わりだけを見ると、日本と朝鮮の関係正常化はなかなか難しいという見方がある。そんな中でも上田さんは、30年間も市民とともに古代朝・日間の歴史認識の歪みを正そうと、地道に取り組んできた。 上田さんは「日本民族を単一民族と見なす素朴な受け止め方は、今もなお日本の政治家・官僚のみならず、多くの人々の中に根強く生き残っている。そうした曲解は、実証的な歴史や考古学・人類学などの研究成果を無視した、歪められた見方や考え方」と語る。 民際、民族際について語りながら上田さんは「世界には1500以上の民族があり、国連には約200カ国が加盟しているが、その大部分は多民族国家である。不幸にも朝鮮は分断されてしまっているが、元は同じ民族。朝鮮が統一すると、ひとつの民族でひとつの国家という、世界でも珍しい国になる」と笑顔で話していた。(金潤順記者) [朝鮮新報 2003.6.4] |