山あいの村から−農と食を考える(9) |
グローバリズムの中で身を抗して 牛の給飼が終わって家に入ろうとゆっくり坂道を歩いていると、「ピーポー、ピーポー」と救急車の音が聞こえた。 北東を通る国道にはライトを照らす車が連ねて走っている。が、救急車の姿はみえない。そして高くもならないままその音は消えた。「どこの誰に来たのだろう、近くの人ではなさそうだ」、などと思い夕餉のテーブルに着く。晩酌のビールを飲むのが生きがいのようになっている私なので、その日もグラスになみなみとつぎ、ぐっと飲みほす。2杯飲み、喉の渇きがうるおされると電話の呼び出しベルが鳴る。受話器をとると季一郎君の声だ。 「トクエさんが倒れていま救急車で運ばれた。輝男君とアキちゃんがついていったので、俺が留守番をしているのだが、1人ではだめだからすぐ来てくれ」との声。 私は飲みかけたビールを残したまま妻のつくった、とろろを飯にぶっかけて飲み込み急いで輝男君宅に行った。この家は私の本家であり、季一郎君の分家なのだ。 トクエばあさんは81歳。脳内出血とのことだった。近隣の縁者が2〜3人集まると、私は政弘さんに運転してもらい山大の附属病院に走った。診断がつき、脳外科の担当医師の説明を受けたのはそれから1時間後位だった。それによると出血の量はさほどではないが、神経がやられているので、右の手足が全然効かなくなっている。多分1週間位でこの病院での治療は終わると思うが、その後はリハビリの治療となる、とのことだった。 トクエばあさんは午前に家から400メートル位離れた野菜畑に行ったらしいが、昼食にも帰って来ていない様子だという。ということは倒れたのは午前中ということになる。そしてそれを見つけたのは季一郎君のばあちゃんで、「夕方裏の畑に行ったとき」というのだから、半日以上倒れたまま外にいたことになる。以前であれば田んぼや畑に通る人が幾人もいたはずのその道路も、いまは通る人がいなくなっているために、山あいの村ではこうしたことがおこるのだ。 最近この村では予期しない人が時折病魔におそわれる。そのほとんどがガンと脳梗塞、あるいは脳内出血などの成人病だ。その1人にMさんもいる。 Mさんの家はこの村では一番大きな百姓だった。米は百俵、まゆは年間3トンも生産し、山林は30ヘクタール以上もある。Mさんはそれを守るために懸命に勤めてきたがすでに73歳になっている。だが、その子どもたちは家にいない。3人の子たちはみんな大学をおえて都市に出ている。 さて、Mさんが倒れて、その田畑がどうなるものか、というのが最近村での最も大きな関心事だ。平野部の田んぼでは貸し借りもある。しかし、山あいのこの村では、トラクターやコンバインなどの大型農機具がフルに活用出来ないために小作してくれる人がいないからだ。 「あの家が…」、「あの人が…」といった具合に、この村の田畑が荒れはて、「家」もなくなっていく。そしてそれはけっして他人事ではなく、まぎれもなく我が家もそうなのだ。娘は東京、息子夫婦は山形市街の近くに移住しているので、10も部屋のある大きな家に妻と2人だけでくらしている。「核家族」のくらし、というのもいい点はいっぱいあるが、しかし、「日本の農家」あるいは「日本の村」ないしは「日本の農業」はこのようにしてなくなりつつある。もちろんその逆に、都市部の人口は密度が異常に高くなり、さまざまな環境問題をおこしている訳だが、それとこれとを同じ舞台で考え、対策に力を入れることを、学者も、政治家も行っていないことを私はとても悔しく思う。しからば誰が―と思いはするが私の力では労多くして効なしの状況なのだ。 というのも「ニッポンの今」は「野菜が不足すればするほど価格が下がる」といった経済現象だからだ。すなわちグローバリズムは国内での経済の原則でははかれないものになってしまっているからである。不足すればすぐ輸入する。野菜のような鮮度を競うものでも空輸で行われるからである。したがって効率のよくない山村などの田畑では若い人が土を離れ、町で金を稼ぎ、それで輸入される野菜も魚も、肉も食するくらしになっている。そしてその若者たちはニッポンの味も香もわからぬ人になっているのだ。 トクエばあさんの姿を思うとき、そんなニッポンに命はって抗しているように私には思えてならない、そして私はトクエさんの休んでいるベッドのそばで「トクエさん」と声高く呼んだ。するとほんとに静かに「ありがとう」と答えてくれたその声には80歳を生きてこられた歴史を強く感じた。 私と妻は、夕べも今朝も、こごみとタラの芽、シイタケとアケビの芽、そして蕗のとうなどの山菜で食事をした。5月、6月の草木が伸びる季節には毎日このような食事が続く。山菜だけではビタミンが不足する、という説もあるが、とにかくうまいのでそれをたべる。まもなくわらびも出る。身欠きにしんを入れたその味噌汁は格別である。そしてこうしたニッポンの味を守ろうとトクエさんは足を運んだであろう、ことを思うと私の目頭は熱くなる。(佐藤藤三郎、農民作家) [朝鮮新報 2003.6.6] |