〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち〉 作家・金明淳 |
妾の子 金明淳は、1920年代羅惠錫、金一葉とともに自由主義女性解放論を主張した第1世代の作家である。 1897年平壌の隆徳面で妾(妓生)の子として生まれた彼女は、南山峴学校、イエス教学校を経て、ソウルの進明女学校で学んだ。知識欲にあふれ成績優秀だった彼女は、友達から「辞典」と呼ばれたくらいであった。 一方、妓生の娘、妾の子としてのコンプレックスからくる恨は悲惨きわまるもので、母をオモニと呼びたがらず敵視し、自分を母と同一視することを徹底的に拒んだという。 1913年日本に渡り、麹町女学校に編入学、1915年帰国するまで、彼女は東京留学生と親睦を深め、雑誌「青春」、「新女子」、「創造」などに寄稿するようになる。その後、淑明女高普に編入(1916)し卒業(1917)した。 当時この学校の下級生であった朴花城によると、音楽室でオルガンを弾きながら彼女がよく歌っていた曲は「母の幻影」だったという。あれほど恨を抱いていた母(父も)はすでに亡くなっていたときだった。その「彼女が後に女性文壇の先駆者になろうとは」思いもよらなかったという。 日本に留学 1917年11月、21歳で金明淳は、まさしく女性作家第1号として登場した。文壇育成のために設けられた雑誌「青春」(1914、11月号)の懸賞文芸応募に小説「謎の少女」が見事に当選したのである。「女子界」創刊号(羅惠錫の第1作目の小説が載っているとされる。1917.6)が発掘されていない現在、これは女性が書いた近代最初の小説となる。 「謎の少女」は母方の祖父と孫娘ポムネの漂流生活の背後に隠れたカヒ(ポムネの本名)の母親の悲惨な生涯を描くことによって、当時の家父長制下の「蓄妾」制度が女性たちにもたらした不幸なできごとを告発した作品である。 自死によって夫に抗し、女性として権利を守ろうとするカヒの母親、それによって家族から疎外された不幸な娘カヒ―これは作者自身の境遇と重なる。生前自分を可愛がってくれた父が正妻の子にだけ遺産を残して死に、父の死後、妾の子として親族から冷たい仕打ちを受け、拠り所を失うことになったから。 その後しばらく日本に留学し、羅惠錫とともに雑誌「女子界」創刊の中心メンバーとして活動し、「創造」の同人に参加、また「新女子」に短編「乙女の行く道」を発表した。 悪いイメージ 彼女は自分の生い立ちへの問題意識にもとづき自由恋愛を実践する一方で、新聞雑誌に多様なジャンルの作品を発表、1925年には女性として最初の創作集「生命の果実」を刊行した。そして彼女の作品は、小説、詩、随筆、評論など約100余編を越えるとされる。これは男性作家にも優るとも劣らない数といえる。 いずれにせよ金明淳の文壇デビューにより近代女性文学は、1920年代に入り羅惠錫、金一葉の3人女性時代が形成される。だが、金明淳についての評価はきびしいものがある。それは作品に対する研究がほとんどなされないまま「男性遍歴の多い」女性として誤解されてきたところに起因する。 彼女の生涯は長い間、彼女をモデルに書かれたという小説「金★(女偏に幵)實傳」(金東仁)と実名小説として知られる「弾実とその息子」(田榮澤)によって語られ、そのうえ、男性文人たちの口伝えによって否定的な面だけが浮き彫りにされてきた。絶賛されたデビュー作「謎の少女」の選者のひとり李光洙が25年過ぎた後、この作品を日本文学の剽窃作品に転落させた事実、そしてそれは今日まで正しく究明されていない。 一方彼女は、短期間であるが毎日申報社の記者として勤務し、1927年からは映画俳優として主演もしたが、創作や生活面で行き詰まり、1951年、東京青山の精神病院で死亡したといわれている。 結局彼女は、封建的な家父長制文化の蔓延する植民地統治下で妾の子としての屈辱と恨を最後まで晴らすことができなかった。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授) ※金明淳(1897〜1951) 進明女学校、淑明女高普を経て東京の麹町女学校、音楽学校でも学ぶ。1917年文壇デビュー。女性記者、映画俳優としても活躍。作品に「謎の少女」、「七面鳥」、「振り返る時」など多数。 [朝鮮新報 2003.6.7] |