朝鮮の食を科学する〈16〉−「骨董飯」由来のピビンパブ |
ピビンパブはいまや日本では人気のメニューである。ご飯の食べ方としてユニークであるだけでなく、使われる食材の野菜類、魚肉類の多様さ、それを調味するコチュジャン、ゴマ油などは、きわめて合理的な組み合わせだ。 ひとつの器で栄養のバランスをとりながら、簡単に食べられる料理、おいしくて、食欲が進むとの評判である。最近は石焼きピビンパブが注目されてきている。 民族の生活の知恵 このピビンパブ、別名「骨董飯」と呼ばれるが、朝鮮民族の生活の知恵から生まれた料理で、由来はいくつかの事実に基づいた話がある。 ひとつは年末の大晦日に残りものの料理を新年に持ち越さないで食べきってしまうとの意味で、すべてを混ぜ合わせて夕食にいただく。翌日の新年にはご飯は炊かず、「怯厩」(湯餅、もちスープ)をいただく。 このような風俗は朝鮮時代の宮廷や上層階級の生活風俗としてあったようだ(「東国歳時記」)。 骨董飯という言葉は、このような上流社会の人たちが呼んだものだ。日本では「骨董」といえば「古いもの」との受けとめ方になるが、この場合は、「多くの材料が混ざったもの」としての意味がある。麺にも骨董麺の呼び方があり、これは今日のピビン麺につながっている。 この由来話のほかに祭祀、つまり先祖の法事が終わったときに、膳に供えた料理を混ぜ合わせて分け合って食べるのがピビンパブという話である。儒教の通過儀礼のひとつとして祭祀は大切な法事であり、多くの親族が集う。夜遅く終わった法事では供え物をいただくのも、楽しみとなっている。 参席者に1人前ずつの配膳が大変なので、女性や子供たちの分は、大きな容器に各種の料理をご飯と一緒に入れ、味つけをしては混ぜ合わせる。これを各自の器に分けとって、いただくのがピビンパブである。庶民的な生活風俗といえようか。 筆者は日本生まれだが、ピビンパブに馴れ親しんだのは、祭祀の終わったときの「夜食」からであった。両親たちの故郷である慶尚南道の生活風習だったと考えている。 この「祭祀ピビンパブ」の由来を裏づけるメニューが、慶尚北道の安東にある。この地域の名物料理に「虚祭祀パブ」というのがある。結構有名な地方料理で、この地域の外食店には必ずあるピビンパブのことだ。 祭祀のときに食べたピビンパブがおいしかったが、祭祀はそうしょっちゅうあるものではない。そこで、祭祀だといつわってはピビンパブをつくっては食べたというわけである。うそ、いつわり「虚偽」であるので、虚祭祀飯と呼んだわけだ。 筆者も安東で、このメニューをいただいた。混ぜ合わせる材料には特に気のつくのはなかったが、コチュジャンが使われていない。これは祭祀に供える料理にはトウガラシが使われないところからきている。赤色は「鬼神」が避けるということで、祭祀床(膳)にはトウガラシは使われないのである。 儒教の風習を強く残す安東ならではの事実だろう。 このような事実は、ピビンパブが祭祀料理の残りものを混ぜ合わせる風習から生まれ、発展してきたことを意味するだろう。 新しい「石焼き」 最近「石焼きピビンパブ」が人気である。マスコミの依頼で、このルーツらしきものを調査してみたが、そんなに古いものではない。2〜30年なるかならないかのアイディアメニューである。 先ず材料の石鍋が庶民の生活で利用されるようになったのは、きわめて新しい。石を加工する技術が機械によってなされるからである。さらにこれを火にかけるのは、プロパンガスが普及してからのことである。 全州地方で生まれたようで、確かにピビンパブ料理の価値を高める役割は果たし、生活の知恵がもたらした新しい文化であろう。 民族の生活の中から生まれたこのピビンパブ、これは箸では混ぜられないし、食べることもできない、匙文化の最たるものであることを強調しておこう。(鄭大聲、滋賀県立大学教授) [朝鮮新報 2003.6.13] |