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東アジア史の視点から〈7〉−「海のある奈良」小浜への旅

若狭、敦賀の渡来文化

百済系の坂上田村麻呂の創建による明通寺の三重塔

 恒例の松本市日朝市民会議による今年の古代日本文化と朝鮮文化を訪ねる旅は、福井県の若狭、敦賀路であった。琵琶湖の湖北・高月町の雨森芳洲庵を皮切りに敦賀市の気比神社と角鹿神社、敦賀半島の白城(しらき)神社、小浜市の羽賀寺や若狭彦、若狭姫の両神社、遠敷の明通寺などを訪ねた。なかでも大いに期待が高まったのは海のある奈良≠ニして著名な小浜市とその古代の中心地であった遠敷や敦賀の朝鮮古代文化と深く関わった神社、仏閣であった。

 騒然とした世相のなかで私たちは静かに、しっかりとした足どりで古代朝鮮半島から渡来した人々の足跡とその文化を探り、古の人間と文化の交流と関係を確かめ、現代に生きる糧と教訓としたのであった。それは江戸時代の日本の代表的な儒学者である雨森芳洲(1668〜1755)の言葉「善隣は国の宝である」を噛みしめ、何としてでも「隣によきは最高の道徳」とした芳洲の考えを貫きたいと願う松本市民会議に参加する人々の心の旅であった。

新羅系の集落(白木)に祭られる白城(しらき)神社

 曇り空にアジサイや花菖蒲がくっきりと映えるなかを敦賀半島の西側ほぼ中央に位置する白木の集落に入る。集落の渚からは、今は稼働していない原発の建物が海辺に建っているのが手に取るように見える。静かな海の風景にそぐわない不気味な姿であった。集落のすぐ側の赤い欄干を渡って石段を上がると森に抱かれるように白城神社が建つ。

 言うまでもなく白木、白城のシラキは朝鮮古代三国の1つである新羅(しらぎ)から渡来して住んだ人々の集落である。古代朝鮮語では城をキと表音する。ここで是非考えてほしいことがある。昔から半農半漁を営む新羅人が祭る白城神社の神は、最初、新羅の神であったはずである。しかし今、祭られているのは『日本書紀』に描かれた「海幸山幸物語」に登場し、兄と争う弟の彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)の息子である鵜茅草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)である。ウガヤフキアエズはヒコホホデミと結婚した海神の豊玉姫が生んだ子である。これは一体、何を意味するのだろうか。

 見えにくく、分かりにくくなっているが、渡来集団の長であり、この地を開拓し、統治したヒコホホデミは現地の海の神・豊玉姫と結ばれるが、子のウガヤフキアエズは新しい渡来系の集団のリーダーとしての神格として祭られた。

若狭最古の神社で渡来系の神を祭る若狭彦神社

 このことを証してくれるのは、古代小浜の中心地であった遠敷の若狭最古の神社である若狭彦神社(715年創建)である。鬱蒼とした昼なお暗い樹林に囲まれた若狭彦神社の名は、単純に考えれば若狭の男(彦)に過ぎない。しかし、この神社の祭神に注目される。祭神は渡来神を意味するヒコホホデミである。あの豊玉姫と結ばれたウガヤフキアエズの父神である。象徴的なのは若狭彦神社の隣につつましく鎮座するのは子のウガヤフキアエズであり、白城神社の神である。

 古代若狭の揺藍の地、遠敷を中心として130の堂塔、伽藍が林立するが、なかでも圧巻なのは明通寺であろう。深い杉木立が重なるように連なるなかに伽藍が配置されている。百済系の和氏を皇后にもつだけでなく、渡来系の人物を登用し、壮麗な平安京を造営したのは知られているように桓武天皇であった。

 その桓武天皇によって絶大な信任を得て蝦夷地の平定に大功をあげたのは百済系の東漢(やまとのあや)出身である征夷大将軍・坂上田村麻呂であった。明通寺は田村麻呂によって806年に創建された。明通寺の本堂は国宝である。緩やかに反り返る屋根は力感にあふれ、荘重そのものである。老杉の中にすっくと建つ国宝・三重の塔の形姿は美しく、あくまで端正で人をよせつけない。これらの国宝は後世の鎌倉時代の代表作として絶賛をあびている。

 小浜市の小浜港は古代から朝鮮東海・日本海に開かれた天然の良港であった。朝鮮半島の文物は小浜港から遠敷に定着し、渡来文化として花咲いた。渡来文化と若狭の海の幸は小浜・遠敷―熊川―朽木―大原口―京都に入る。この道は鯖街道≠ニよばれた。(全浩天、考古学研究者)

[朝鮮新報 2003.6.25]