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〈生涯現役〉 済州島から天津、北京、大阪へ梁寿玉さん

 部屋に入るとまず差し出されたのはメディアの拉致報道を批判した記事が載っている月刊誌「論座」だった。「これ読んでる?」と朝鮮語なまりのないゆったりとした大阪弁で話しかけてきた。

成績優秀

 梁寿玉さんは済州島南済州郡出身。「この頃、拉致問題、拉致問題いうやろ? 私が乳飲み子だった頃、うちのオモニも日本へ連れてこられてね、私はハルモニが育ててくれたんや」。子供の頃、日本人巡査のガチャガチャというサーベルの音におびえた記憶が今も蘇る。

 7歳の頃、関東大震災の知らせを聞く。「日本へ行った友達の親が震災で殺されたという話を聞いた。当時日本人が船できて若い女の人をさらってね、その子孫らはヨベチプといってタオルで顔を隠していたよ」。「ヨベチプ」とは「倭船家」の済州島なまりだという。

 日本へきたのは8歳のとき。京都で2階の3畳間を借りてオモニと暮らした。

 「表を眺めていると警官になぜ学校に行かないのかと言われてね、それから学校に通えるようになった」

 手先の器用だった梁さんは、学校の代表に選ばれ「天皇陛下に見せる」工作品を作って褒美をもらったこともある。成績優秀、3年から5年に飛び級もした。学校を移り、新しい生活が始まろうとしたとき、めぐりあった歴史の先生は最悪だった。

 「三韓征伐、朝鮮虎退治の話ばかりして。本当に嫌な先生だった」

 勉強熱心な少女は歴史の時間になると次第にうつむき、心を閉ざすようになっていた。29年、済州島に帰り、学校には通えなくなった。「毎朝髪を結って、時間割をして、学校のことばかり考えていたよ」。

抗日運動も

 済州島では1930年代、青年団、少年団、少女団を組織して抗日運動が果敢に繰り広げられていた。左翼系の先生の指示を受けて活動に参加。怖がりで夜中ひとりでトイレにも行けなかった少女が、いつのまにか星の傾き具合を見計らって浜に出かけるようになっていた。やがて少女の名は知れ渡り、逮捕状が出るまでに。

 「駐在所にしょっちゅう連行されて行って、指の間に鉛筆をはさまれて痛い思いもした」という。

 そして17歳で再び日本へ。白衣の看護婦に憧れて、産婆さんのもとで働いた。後に医院へ就職。19歳で結婚し、戦争が始まると夫と2人で中国の天津に移り住む。「赤紙1枚でどんどん召集される時代だった。日本の『国防婦人会』は『勝った、勝った』とうぬぼれて、市民らは竹箒をぬらして鬼畜米英が投下する焼夷弾の火を消すための練習ばかりしていたよ」。

 そこで夫が肺病を患い、ひとり済州島に帰っていった。夫はまもなく死亡。看護婦として働くさなか敗戦を迎えた。

 「とたんに立場が逆になったよ。戦争中は日本が威張って、中国人をさんざんな目に合わせてきたから敗戦すると逆になった」

 天津から北京へ行く途中、列車で偶然隣に座った日本の軍人が、梁さんが朝鮮人とは知らず「かばんの中に重要資料が入っている」ともらした。内容は「朝鮮学徒兵を前線に送り弾除けに使えという指令」だった。

活動家の妻に

 敗戦の翌年、済州島に帰郷するものの戦後の混乱の中、抗日運動で名の知られていた梁さんには逮捕状が出された。やむなく西帰浦を経て日本へ。同胞の紹介を受けて32歳で再婚する。相手は朝聯の活動家だった。「活動家の奥さんはしっかりしないと。お金もないし、子供3人、服の商売をしながら生活したよ」。

 自身の一生は「アリ1匹のそれと大して違わない」と話す。「祖国を奪われた民族の惨めさを味わって生きてきた。望みは統一。けれど、生きてる間になるかなぁ…」。

 今、自身が読み終えた「論座」や「週刊金曜日」などの雑誌を近くの高校に届けている。「せめてこういう記事を読んで子供たちを教育してほしい」と願うからだ。

 旧西ドイツのヴァイツゼッカー大統領の「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」という言葉を引用して、「ドイツ人は過去の責任を引き受けているが、日本は私が死ぬのを待っている。北京へ向かう列車の中で朝鮮人を『弾除けに』といった軍人の言葉が忘れられない。日本人が過去のことをきちんと知れば差別もなくなるのに」と話していた。梁さんの努力は今日も続く。(金潤順記者)

[朝鮮新報 2003.7.7]