山あいの村から−農と食を考える(10) |
「世の中どこか狂ってる」 山形は「さくらんぼ」の産地として全国一を誇っている。私が子どもの頃は「桜桃」と呼んでいたそれがいまはそのように呼ぶ人は少なく、みんな「さくらんぼ」といわれている。 しかしそれでも、山形県内で出来るものとは質が違う、というのが東京などの市場での評価だ。 さくらんぼは日本だけのもの、と思っていたらそうではない。もう十数年も前になろうか、アメリカ産のさくらんぼが輸入されることになり大騒ぎをしたことがある。なぜならその価格がすごく安いからだ。それがそのアメリカ産のさくらんぼに押しまくられて、山形のさくらんぼは駄目になるだろう、と心配したのだが、ことこれに限ってはその心配が無用のものだった。りんごや、ぶどう、みかん、それに柿など、健康を守るために必要とされる果物は軒なみに輸入の自由化によって著しく価格が低迷したのに、ことさくらんぼに関しては押されたり潰されたりしないで存在を堅く守りきっている。その理由はいったいどこにあるのか。 実は産地にあっても私たちはあまりさくらんぼはたべない。高いお金を出してまでたべる必要がないからである。ただし風雨のために傷ついたものが沢山出るといやというほど口に入る。というのは傷ものは商品にならないからである。逆にいえば商品にならない傷ものが多く出るからこそその価格が高く維持されるのである。それで私たちには傷ものが出ない気象条件に恵まれたときなどは全くといっていいほどさくらんぼは口に入らない。つまりそうであっても健康や生命には何の支障もないものということだ。ことばを換えていえば、さくらんぼの価値というのはそうした生命とか生活というものにとってあまりかかわりのないところで価格価値がきまるもの、ということだ。重ねていえばそのようなものゆえに、価格がさがらないといった代ものなのである。つまりいらなくともまにあう貴金属のようなもので、利用価値で価値が決まるのではなく、商品としての価値は「珍しさ」や「美しさ」が決めるものなのである。したがってこれは贈答用としてその価値が維持されているのである。だからアメリカ産のもののように大量生産の安ものであってはその価値は認められないのである。もちろんアメリカ産のものは山形産のものと比べればその美味さも格段の違いはある。 しかし、おかしなことに日本人というのは、そうしたものにお金を使うのがとても好きな民族なのである。 だが、こと百姓にしぼればそうした奢りの精神はあまりない。私の家に来るエッチャンという馬喰郎の話によれば、お得意の農家にさくらんぼのお土産を持参することよりも大根を持っていってやった方がずっと喜ばれる、という。もちろん美味しく色づいた上等なものではなく、選外の傷ものだろうが。しかしそれにしてもエッチャンはそのさまに「感心する」というのだ。さらに私はそういうエッチャンの話を聞いて感心する。そしてエッチャンはそれをいいつつ「世の中どこか狂っている」。「どこかおかしい」と口角泡を飛ばして盛んに告げる。つまりほんとのものの価値を知っているのは底辺のくらしをしている百姓なのだ、と自らが改めて発見した喜びと怒りを仲間である私に訴えるようにいうのだ。 もちろん産地の住民の1人として、さくらんぼの価格がたたき潰されないでいるのは嬉しい。しかしそれ以上に残念至極なのは、日常食べなければならない野菜までが輸入に依存していることに知りつつも怒りを持たない人の多いことを私は憎まずにおれない。そして今朝もエッチャンのいう「世の中どこか狂っている」ということばを口ずさみながら、田んぼの土手から蕗を摘んできた。蕗は煮付けて油でいため、トウガラシで味をつけると実においしい。それとアサズキに生味噌をつけてつまみで晩酌するのは格別だ。安い酒でもおいしくなる。 こうした生命保全に欠かせぬ価値のある自然の宝がこの頃は山あいのこの村でもあまり人の手で摘まれることがなくなっている。 これも過疎化の1つの現象なのか。そしてまたそれをいいことのようにして蕗たちはすごい勢いを見せて伸びている。さらにそれを見て悔しく思うのは山あいの住民といえどもそれに背をむけて野菜までもを町のスーパーに走って買い求める姿だ。それを見るたび「どこか世の中狂っている」というエッチャンの言葉が思い浮かびいたく私の胸をつつく。(佐藤藤三郎、農民作家) [朝鮮新報 2003.7.11] |