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〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち〉 声楽家・尹心悳(上)

 1926年8月4日未明、下関発の関釜連絡船上から声楽家の尹心悳が劇作家の金祐鎮と玄界灘へ身を投じて心中した。有望な朝鮮の若き芸術家が荒波の花となって散っていったこの情死を、当時新聞は連日センセーショナルに特筆大書した。

平壌のキ教家庭

 尹心悳は1922年、上野音楽学校を卒業し、朝鮮人ではじめて本格的な歌手として活躍したが、その人気は大変なものだった。上野音楽学校卒業公演で「人形の家」のノラ役を好演し、当時帝国劇場支配人から150円給料の専属女優としてスカウトされたが、イタリア留学を夢見る彼女はこれを断った。彼女は音楽家志向であった。朝鮮の土壌の上に音楽の大輪を花咲かせたかった。

 尹心悳は、1897年正月、平壌で貧しいキリスト教徒家庭の次女に生まれた。美貌だが、大柄のお転婆娘で、幼少仲間の間でも男児顔負けのリーダーで週一教会の「讃美歌博士」という名が四方八方に拡がるほど、天性の美声と並はずれた声量の持ち主であった。気さくな性格の一方、思いやり深く、繊細で、刺繍などこまめな手仕事も得意で、また非常に頭脳明晰な人で、人なつっこいだけ周囲の多くの人々から愛された。

 母の勤める教会系平壌広恵女病院の女医師ホールの援助もあって、尹心悳は父母の反対を押し切り、ついにソウルに出て京城女高普で学ぶ(1914年卒)。

 孝行娘である彼女は、勉学の合間に手芸品づくりや編み物などをして小遣いを得ると、それで学費の足しにし、父母や兄妹たちの日用品を買って送ったりした。

 「毎日申報」に記事が出たくらい話題になったが、優秀な彼女は官費留学生として1915年4月、東京へおもむき、青山学院をへて、上野音楽学校声楽科に入学した。

 人気者の尹心悳は、浅草、銀座、帝国劇場などを派手な装いで闊歩するその東京生活ののちに雑誌(「新民」1926.9)に紹介されたりした。

観客の熱狂ぶり

 彼女は口ぐせのように友らに言うのであった。

 「好もうが好むまいが、美しかろうが醜かろうが、わが祖国、わが同胞であるため、私らは死ぬまで朝鮮の心を詠み、朝鮮の悲しみと朝鮮の新しいよろこびを歌わないと駄目よ。ナポリへ行こうと、マルセイユへ行こうと、東京へ行こうと、私らはいつも山美しく水清い朝鮮の、退廃してゆく芸術を立て直し、立ち上がる働き手にならんとする思いがなくてはならないはずよ」

 そして1921年の夏。東京留学生たちの「劇芸術協会」による祖国での演劇巡演に参加することとなった。趙明煕作、金祐鎮演出の「金英一の死」などと音楽、講演の組み合わせで、7月8日の釜山公演からはじまり、金海、馬山、晋州、統営、慶州、大邱、木浦、光州、全州、群山、江景、公州、清州、ソウル、開城、海州、平壌、宝川、定州、鉄原、元山、永興、咸興など、25都市で長蛇の人波と拍手喝采の中、公演がつづけられた。東亜日報社、天道教青年会、仏教青年会など各種社会団体の後援を得てのことである。音楽に尹心悳のほか、洪蘭波、韓g柱も。

 雲のように集まった観客の熱狂ぶりを東亜日報はこう報じている。(1921.7.18)

 「金持ちの学生全ソグォンと格闘が起きる場にいたっては、そいつを殺せ、という叫び、劇場の破裂するくらい四方から飛び交った。そして第三幕金英一が死ぬ段にくると、ため息つく人、泣く人、劇場は全く何か葬儀場に化してしまったかのようであった」

 しかし、劇中セリフの「10年前には自由があったが、今はない」が臨席警官の摘発となり、8月18日、公演中止となってしまった。

熱い祖国愛

 尹心悳は一ヵ月半におよぶこの公演によってはじめて広く祖国の山河を踏みしめ、熱病のように熱い祖国愛が胸にこみあげてきた。だが、歩足ごとに美わしい祖国の山河は広がるが、なぜにこの国の民は悲しみにむせび、かくも悲惨な生活を強いられなければならないのかという思いが、貧しい父母の生活とダブってひとしおつのってくるのであった。

 尹心悳にとって、全国巡回公演は@民族のアイデンティティーを発見する契機となりAはじめて聴衆の前に立ち、歌い手としての胆力を育みB運命の人金祐鎮とはじめて出会うこととなった重要な意味を持った。(金学烈朝鮮大学校、早稲田大学講師)

※尹心悳(1897.1〜1926.8.4) 平壌・準営里のキリスト教徒家庭で出生。1922年、上野音楽学校卒業。23年6月、デビュー後、日東レコード会社専属歌手、中央放送局司会(アナウンサー)も。26年。8月4日、金祐鎮と玄界灘で心中。

[朝鮮新報 2003.7.14]