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〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち〉 声楽家・尹心悳(下)

 東京上野音楽学校卒業後、1年間尹心悳は同校で助手に籍をおいて、声楽をひきつづき学んだ。そして1923年5月初め、彼女は錦衣還郷した。

最高のソプラノ歌手

 ソウル上京(母校、京城女子高普で講師)が機となって、彼女はすぐさまデビューすることとなった。1923年6月26日、彼女は鐘路中央青年会館で東亜婦人商会創立3周年記念音楽会に出演したのであるが、東亜日報はその前日にすでに「天才歌手」と銘うってその特別出演を報じた。彗星のようなデビュー後、彼女はわが国唯一最高のソプラノ歌手としての名声をとどろかせ、めまぐるしい公演活動をつづけた。

 1924年秋、飢饉克服運動に参与しての慈善音楽会舞台に立つ頃には、彼女は輝かしい民族音楽家の面貌さえただよわせた。だが、この頃から、彼女の歌は次第に悲しい響きに変わって行った。民族の悲しみと、自らの悲しみが重なって行くのであった。クラシックより流行歌を歌わなければならず、イタリア留学もかなわぬ芸術家としての苦悩が去らなかった。

 声楽家としての悩みのほか、経済問題の壁も立ちふさがった。ソウルへ引っ越してきた父母と、梨花女専でピアノを学ぶ妹の聖悳、延嬉専で声楽を学ぶ弟の基誠の世話は彼女の一手にかかった。

 それでやがて彼女は、日東蓄音機(レコード)社と専属契約を結び大衆歌謡(流行歌)のレコードを吹きこんだり、中央放送局に勤めセミクラシックなどの歌のほか、詩の朗読や司会もするようになった。こうして、彼女は大衆歌謡とセミクラシックの先駆者としての役割も果たしたのであった。

中国への逃避行

 声楽を学ぶ弟基誠のアメリカ留学費捻出が姉として気がかりであった。1924年末、これを助けようというソウルの財産家李容汶との関係がスキャンダル化され、彼女は居たたまれず中国ハルピン(知り合いの牧師宅)へと逃避行する。

 東京留学時代から親しかった水山・金祐鎮(1924年、早大卒)が驚いてソウルへ駆けつけ、金銭問題をなぜ自分に相談しなかったのかと彼女を責めたが、すでに時遅しであった。

 じつは、尹心悳は東京留学の折から金祐鎮に強く引きつけられていた。魅力的な彼女は、東大の秀才ら群をなす留学生たちのプロポーズをことごとくしりぞけ、1人口数少なく、度のきつい眼鏡をかけた小柄の金水山に強い関心をいだいた。社会主義思想に傾倒した彼は哲学者然としていて富豪の出だというが、そんな素振りは全くなく、きわめて質素である。むしろ派手な装いの、男まさりの行動派である彼女に反感をいだいてか、彼は冷ややかに対するのではないか。

 ところが、劇作家を志す水山も、卒業公演時のノラ役の熱演に魅せられてからか、1923年の夏休みに尹心悳妹弟を木浦の自宅へ招待し、家族音楽会を開くよう取り計らった。彼女は、水山が父の命により早婚していたことを知っていた。だが仰天した。城のような豪邸に99もの部屋がある大地主の子である。

孤独と苦悩

 1924年早大を卒業、やがて批判的リアリズム劇作家として名を馳せる水山(1926年、戯曲「猪」、評論「李光洙流の文学を埋葬せよ」)とは、その後頻繁に密会を重ねた。

 約半年間の孤独と悲しみの中国から、1925年8月帰国したのち、音楽界カムバックをはかるがかんばしくなかった。水山に相談を持ちかけ、そして彼の紹介を得て、1926年1月朴勝喜主宰の「土月会」、新劇会に入ることとなる。彼女むきに「カルメン」なども興行するが成功せず、芸術家として深刻な壁にぶち当たる。

 水山の方も、昼は父の厳命にしたがって事業経営に敏腕をふるうが、夜には枕もとにレーニンの「帝国主義論」をおいてプロレタリア文学をめざして励む自己矛盾に悩んだあげく、新しい芸術への道を歩んで、1926年6月中旬出奔、東京の洪海星(築地劇場俳優)の下宿(暑いトタン屋根裏部屋)に駆け込む。

 新しい芸術建設へと意気込む(ソ連行きを計画)彼のもとへ傷心の尹心悳が訪ねて来た。そして8月4日未明、彼女が最後に吹きこんだ曲「死の賛美」を歌いながら、すぐれた若き2人の芸術家は、ついにこの世で愛を成就させることなく玄界灘の荒波に散って行った。乗客名簿には「金水山(30)、尹水仙(30)」の名が残っていた。(金学烈、朝鮮大学校講師)

※尹心悳(1897.1〜1926.8.4) 平壌・準営里のキリスト教徒家庭で出生。1922年、上野音楽学校卒業。23年6月、デビュー後、日東レコード会社専属歌手、中央放送局司会(アナウンサー)も。26年。8月4日、金祐鎮と玄界灘で心中。

[朝鮮新報 2003.7.29]