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高麗人参余話(10)−王室外交の花形

 人蔘は、ウリナラはもちろん中国医学においても重要な薬物である。この植物を自生地から採取できる地域は広い東アジアのなかでも一部に限られていたので、古くから貴重な薬物であった。

 かつて、ウリナラのほぼ全域に人蔘の自生地があった。高句麗(紀元前37―668年)、百済(紀元前18年―660年)、新羅(紀元前57―935年)、渤海(698―926年)、高麗(918―1392年)、朝鮮(1392―1910年)の各王朝はこの特産物を独占し、東アジアの秩序の中での貿易や外交礼物として重用し、国や王室の財源とした。

 ウリナラの歴代王朝にとって中国との関係はとりわけ重要であった。

 三国史記新羅本紀によると聖徳王22年(723年)4月に新羅が唐の皇帝(開元)に駿馬1疋、金、銀、銅、海豹の皮、牛黄とともに人蔘を租貢したという。聖徳王33年(734年)4月には馬2疋、布木60反、牛黄20両、人蔘200斤、髪の毛100両、海豹の皮16枚を租貢した。このとき唐に送った人蔘は200斤である。(現在の1斤は600グラムだが昔はもっと少ない)孝成王3年(740年)にも黄金30両、布木50反、人蔘100斤を租貢した。景文王9年(870年)には駿馬2疋、金100両、銀200両、牛黄15両、針箱60箱、針1500本と人蔘100斤を租貢した。

 高麗時代にもウリナラから元の皇帝に人蔘を納めた記録が残っている。忠烈王3年(1277年)、元の皇帝(至元)は高麗の中郎将曹允通をさせ人蔘を納めさせた。

 忠烈王の時代には元に租貢した記録が多く残されている。

 忠烈王4年(1278年)、忠烈王19年(1293年)、忠烈王23年(1297年)、忠烈王24年(1298年)、忠烈王25年(1299年)にそれぞれ租貢されたと記されている。(洪南基、神奈川大学理学部非常勤講師)

[朝鮮新報 2003.8.1]