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〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち〉 記者、作家・宋桂月

 宋桂月は、女性雑誌記者として新進作家として将来を嘱望されながら惜しくも23歳の若さで息を引き取った女性である。

 朝鮮が日本の植民地となった翌年の1911年、宋桂月は咸鏡南道北青郡のある漁村で生まれた。

 普通学校を終えた彼女は、15歳のとき1人で故郷を離れソウルへと向かった。ソウルへの憧れと向学心に燃えてのことであったが、この家出事件は大胆で気の強い咸鏡道女性の気質とともに、「負けず嫌いで進取性に富み」、「明朗で情熱的」な、宋桂月の性格を物語っている。

家出して初志貫徹

 1927年京城女子商業学校に入学した彼女であったが、夢にまで見たソウルでの女学校生活は決して満たされるものではなかった。当時「良妻賢母」を理念とした女学校の教育は、家事や手芸など家庭生活に必要な知識を教えることに多くの時間が費やされていた。就職をめざして入った学校で社会生活に必要なことが学べないということは彼女をいらだたせた。

 幼い時から父の影響で思想関係の書物を好んで読み育った彼女は、この時期社会科学や文学の書物に没頭する。そして階級的矛盾や植民地朝鮮の現実に目覚めていった。ストライキや学生デモを主導し、新聞紙上に名前が載るようになるのもこの時期であった。社会主義女性解放論に共鳴、当時女学生の組織化に力を入れていた槿友会庶務部長、許貞淑と関わりを持ち1928年、校内ストライキを指導、要注意人物となり1930年にはソウル女学生デモ・リーダーの容疑で投獄される。

 同年5月、執行猶予で出獄した彼女は、経済的に自立するため「丁字屋百貨店」にデパートガールとして就職する。しかしもともと文学を志していた彼女にとって、小説を書きたいという夢は膨らむばかりであった。折よく開闢社から記者としての仕事の依頼を受けた彼女は、すぐさま辞表を提出、開闢社へと向かった。

 こうして1931年4月、女性雑誌「新女性」編集を担当する「活発で凛々しい」21歳の女性記者、宋桂月の第1歩がスタートした。

「新女性であるために」

 彼女はデビュー記事、「私が新女性であるために」(1931「新女性」)で真の新女性とは、「忠実な個性の自覚を持ち、社会意識に目覚めなければならない」、また「少数部隊の先駆者」として、家庭婦人と労働者女性に対する責任感を持たなければならないと強調している。

 崔貞熙が女性文芸作家だけのグループ結成について提案したとき、「真正なる進歩的意義は男性対女性の性的関係にあるのではなく、ブルジョア階級対プロレタリア階級という階級的関係にある」(1932「新女性」)と反論した。このように女性の解放を階級解放を通して実現しようとした当時の社会主義女性解放論に共感した宋桂月が浮彫りになっていった。これは階級文学を目指した姜敬愛、朴花城、崔貞姫、金慈惠らとともに連作された小説―「若いオモニ」(1933「新家庭」)に彼女が関わっているところからも知ることができる。

「女は花」を拒否

 男性第1の当時の社会において記者とは名ばかりで読者確保のため採用された女性記者には、「花草記者」としての「女性らしさ」だけが強く求められた。こういった雰囲気の中で、均整のとれた体つきにモダンな美人顔といった宋桂月の際立った美貌は人気を呼び話題になった。やがて社会の誘惑と悪い噂との彼女の闘いが始まることになる。

 1932年2月、肺病にかかり故郷で療養を終え上京した彼女を待っていたのは、私生児を生んだという悪いデマであった。彼女のショックは大きかった。何よりもKAPF(朝鮮プロレタリア芸術同盟)の会員であった李甲基によって社会主義系列である批判社の「女人」誌に、これが事実のごとく記事として載せられたからだ。

 彼女はつのる無念さに身を震わせた。再発した病魔とデマの中で彼女は心身ともに衰弱し、やがて息を引き取った。1933年3月享年23歳。あまりにも短い生涯だった。理知的で潔白であった宋桂月を偲び妹や親友たちは、彼女を死に追いやった社会の卑劣な攻撃、残忍さを恨んでやまなかった。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授)

※宋桂月(1911〜1933) 普通学校をへて京城女子商業学校を卒業した後デパートガールとして就職。1931年から女性雑誌「新女性」の記者として活動。作品に「街頭連絡の初日」、「工場消息」、遺稿として「病床の片想」がある。

[朝鮮新報 2003.8.11]