〈朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち〉 作家・朴花城 |
自我の目覚め 朴花城は植民地時代から1980年代半ばまで60年近く「吹雪と嵐の中で、長くも遠い航海を続け」(自伝「吹雪の運河」)、振幅の大きい生涯を送った女性作家である。 全羅南道木浦で宿屋を営む裕福な家庭の末娘として生まれた彼女は、4歳でハングルを覚え学校に入っては2度飛び級をする利発な子であった。 しかし、日本の植民地統治が本格的に始まる中で父の事業が難しくなる一方、父が妾を置くようになり、家庭の事情は一変した。母に暴力をふるい、家庭を顧みない父の姿は、男性に支配されない主体的な女性として生きる自意識を強く抱かせた。 淑明女高普を卒業(1926)した彼女は、15歳の若さで天安、牙山、光州などで教鞭をとり、霊光中学校で詩人、゙雲と出会う。 「私の一生で1番貴重な時期は、霊光での日々であった」(自伝)と記しているように彼女はこの時期、徳富蘆花、トルストイなどの文学作品や文学理論書を夜を徹して読んだ。デビュー作「秋夕前夜」(1925)が李光洙の推薦で「朝鮮文壇」に掲載されたのも゙雲の紹介であった。 民族独立に役立つ人材になることを理想としていた彼女に兄、順景(後に朴済民と改名)とその友人である金永植の思想的影響は大きかった。そして4年制の淑明女高普卒業後、日本女子大学での読書会や槿友会東京支会(1928.1、結成)支会長としての活動などは、彼女の階級意識を高める直接的なきっかけとなる。やがて兄の友人で、新幹会の中央執行委員も務めた金国鎮と結婚する。 夫の検挙 しかし1931年、花城の人生航路に激しい吹雪が舞い始める。夫が「共産主義宣伝不穏ビラ」事件で検挙され3年の刑が言い渡されたのである。 彼女は夫を支え家族を養うため小説を書き始めた。120回にわたり6カ月間「東亜日報」に連載された女性初の長編小説「白花」(1931)はこうして誕生した。当時の金で1000円近い原稿料をもらったという。ところが花城自身が自薦する作品は、木浦の下水道工事を素材として日本人が朝鮮人を搾取した現実を極めてリアルに描いた「下水道工事」(1931)である。 そして「傾斜」(1933)ではスオクとチュヒという全く対照的な2人の女性を通して自由恋愛と流行に走る新女性を批判しながら、現実に目を向け階級的に目覚めることを主張した。 しかし彼女自身、理想と現実のはざまで悩み苦しんだ。夫、金国鎮は出獄後間島に渡り、龍井の東興中学校(姜敬愛の夫、張河一は教務主任だった)に赴任、独立運動にも関わるが、経済的援助もなく、子供を花城の母に任せて龍井に来るようにと言ってよこした。 これに憤慨した花城は金国鎮と離婚し、実業家の千篤根と再婚する。当然世間から非難を浴びた。これは儒教的女性観が強かった植民地下の朝鮮で花城を含め独立運動家の妻として、母として、作家として生きることの難しさを雄弁に物語っている。 再婚した花城だが、夫の没埋解、出産と育児、家事の負担は増すばかり。そして日本の皇国臣民化政策が進められる中で、1937年朝鮮語抹殺政策に抗して執筆を断念する。 フェミニズムに関心 彼女が長い沈黙を破って執筆を再び開始したのは朝鮮が日本の植民地から解放されてからだった。解放後彼女はフェミニズムに関心を向け、それを大衆文学といわれる作品の中に盛り込んで新聞や雑誌に連載した。しかし、日帝統治のもとで同胞の悲惨な生活と悲哀を描き一時は社会主義に共感した同伴者作家と評価された彼女だが、そのフェミニズムは階級を喪失したものとなる。 植民地、南北の分断性、戦争と朝鮮近現代史の激動期と共に、吹雪と嵐の中で理想と現実、反発と順応をはらむ朴花城の文学、人物評価の位置付けはまだまだこれからの課題として残っている。(呉香淑、朝鮮大学校文学歴史学部教授) [朝鮮新報 2003.8.18] |