東アジア史の視点から〈8〉−渡来文化と海の幸運ぶ道 |
若狭街道
神秘的で雄大、奔放でダイナミックな墨絵のような景観と言うべきか。雨雲が深くたれる三方五湖の風景の中を突き抜けて丹後街道に向かって西に進むと内外海半島の東側に小浜市の阿能の海が広がる。 この海には古代の製塩遺跡である阿能遺跡がある。木札に文字を書いた木簡と共に荷札が奈良の飛鳥京や藤原京、平城京の遺跡から発見された。その荷札によって若狭から大量の塩と海産物が都の宮廷に納められていたことがわかった。阿能の古代製塩所で造られた塩は他の海産物と共に小浜から若狭街道を通って京都、奈良に送られた。若狭街道は、「鯖街道」とも呼ばれた。 朝まだ暗い若狭湾で水揚げされた鯖は一塩されて小浜から一夜のうちに京の都に運ばれた。「京は遠ても十八里」である。塩は大きな土器に海水を入れ、煮つめて造られた。鯖売りたちが歩いた道は朝鮮文化と海の幸を都に運ぶ道であり、京の文化を「海のある奈良」に伝える道でもあった。
羽賀寺は阿能から近い。山を背にした羽賀寺は明るい空間のなかで時を忘れたような深い静寂に建っている。本尊は十二面観音菩薩の等身大の立像であるが、生き生きとした女体を思わせる素肌、長い眉と長い腕、指の動きには目を見張るばかりである。参詣者がつく鐘の音が山間に響くとき、羽賀寺を716年に創建した名僧・行基の若かりし頃の活動が思い出される。大僧正の位まで進んだ声望高い著名な行基は、百済系の氏族・西文の出身であるが、24歳の時に仏門に入り山林修業の道に入って苦難の道を歩んだ。 ところで、若狭の地をなぜワカサとよぶのであろうか。海を渡ってきた男女2人の神はいつも若かったので「和加佐」と名付けられたが、それが若狭の地名になったという。微笑ましい話であるが根拠とするには薄弱である。 そこで有力視されているのが本居宣長の門弟で若狭小浜出身の国学者伴信友の学説「若狭旧事考」である。「日本書紀」の履中天皇3年の冬十一月条に天皇が磐余の池に舟を浮かべて遊んだとき、天皇の盃に桜の花びらが落ちた。天皇は季節外れの桜の花に喜んで「磐余の稚桜の宮」と名づけた。その宮の名である「磐余」の「稚桜宮」から若狭の地名が生まれたというのである。しかし、この信友の説は成立しない。
「日本書紀」神功皇后3年の春正月の条に「磐余に都をつくる。是を若桜宮という」という記事がある。この記事をまねて作ったのが履中紀の「磐余の稚桜」説であるという批判がある。このような作為的な文章をもって地名若狭の起源とすることはできない。何よりも「磐余の稚桜」説は若狭地方とは何の関係がないばかりか、磐余は大和の地名であって現在の櫻井市あたりである。 古代若狭の中心地、遠敷にあって若狭の名を持つ姫神社を訪ねた。若狭彦神社と共に若狭で最も古い神社である。若狭姫神社は716年の創建である。若狭姫とは単純に若狭の女子という意味であるがその実像は何であろうか。祭神は女性の海神・豊玉姫である。豊玉姫は日本神話の「海幸山幸物語」に登場する渡来系の神・山幸彦のヒコホホデミと結婚してウガヤフキアエズを生んだ。ウガヤフキアエズは敦賀半島の新羅神社の祭神である。このように豊玉姫を祭る若狭姫神社は渡来の神々との関わりを深く持っている。 前号(6月25日)で述べたように若狭姫である豊玉姫の夫は、若狭彦で山幸彦のヒコホホデミであり、言うまでもなく新羅系の神であるウガヤフキアエズの父神である。したがって渡来の神と関わる若狭姫と若狭彦のワカサは地名、若狭の起源となる。それでは何故ワカサなのか。 若狭にやって来た渡来の人々とその文化、信仰と結んで朝鮮語で解くべきであろう。ワ ガソ(来て行きな)、ワ ガッソ(来て行った)は音韻変化してワガソ―ワガッソ―ワカサ=若狭となった。渡来の人々が住む能登半島の七尾市の上沢や石川県の鷲走も同じであろう。(全浩天、考古学研究者) [朝鮮新報 2003.8.20] |