朝鮮の食を科学する〈18〉−飲料文化の歴史的返遷と衰退 |
飲料の文化が同じ東アジアの中国や日本と異なるのが、朝鮮の特徴である。 日本では、食後に緑茶の類が出されるのが普通であったが、朝鮮、韓国では茶の飲料は出ない。ごく近年、韓国ではコーヒーを飲む人が増えてきたし、日本のような緑茶も観光客用には出るようになったが、家庭での一般的な飲料はご飯のお焦げ(ヌルンジ)を湯にといたスンニュン、トウモロコシ茶、麦茶などの穀類茶である。共和国ではスンニュンかハーブ茶のようなのが家庭の飲料となっている。茶の葉はない。 飲料の歴史 日本のように緑茶が生活化していないのは、歴史的な変遷の過程ですたれたのであり、古くは茶は飲まれ、茶道もあったのだ。 とくに、仏教文化の華を咲かせた高麗時代には、一部の階層で飲茶はたしなまれ、茶器、茶碗などに、今日にまで残るものがつくられている。 記録によれば、828年、唐の国へ使臣として行った金大廉が茶種を持ち帰り南の智異山のふもとに植えたのが茶樹栽培の始まりである。 茶樹は気候が温暖な地域でしか生育しない。 新羅時代から始まり出した茶をたしなむ風潮は茶樹栽培によって盛り上がり、王公、貴族、寺院などのいわゆる上流階層では「茶の会」が行われ、宮廷では進茶の儀式が出来上がった。寺院では仏前の供養の飲茶にとどまらず僧侶たちの遊びへも発展をみせる。 寺院は茶の生産を手がける。各寺院の周辺には、「茶村」を持ち「茶田」をつくり、「茶泉」を設ける。慶尚南道蔚山郡彦陽面が、いまもある。近くの通度寺の「茶村」であったことはよく知られている。 茶を飲む場の「茶亭」がつくられ、茶用の「茶果」が考えられ、茶の葉の菓子「茶食」もつくられた。宮中では「茶房」という官庁を設けた。韓国で喫茶店のことを茶房と呼ぶのは、この呼称から来ている。 飲茶の衰退 高麗の寺院や貴族などの一部の階層を中心として咲き誇った飲茶の風習も朝鮮王朝時代に入って急激に衰える。 その大きな要因は仏教文化の後退である。 朝鮮朝初代の王李成桂は儒教を崇めて仏教を排する。「崇儒排仏」政策を打ち出し、寺院はすたれる運命をたどることになる。茶を飲む人は仏教信者とされ「うしろ指」をさされる対象となる。また政府が、茶園の所有者、茶の生産地(主に全羅道、慶尚道の温暖地)に、苛酷な税金を課したことも、多くの人の茶離れに拍車をかけた。多くみられた茶の名産地は17世紀以降、姿を消してしまった。わずかに慶尚南道河東に茶樹が残されていたのが、いまは近年の見直し文化で、観光の目玉になっている。そしていま全羅道、済州道では新しい茶園が造成され、緑茶文化が甦えろうとしている。 新しい飲料 茶の葉からの飲料はすたれたが、人びとの知恵は別な飲料をつくり出した。 そのひとつは漢方材料の薬用飲料である。 高麗人参茶、枸杞茶、柚子茶、五味子茶、紫蘇茶、決明茶など枚挙にいとまがない。 いまひとつは穀類茶で、麦茶、ハト麦茶(薬用茶でもある)、とうもろこし茶などである。 これらの飲料のいずれもが、茶樹とは何ら関係のないものなのに、それぞれ「茶」という字を使っているところに、「茶文化」の流れをとらえることができる。 家庭の飲料でもっとも一般的だったのが、ご飯のお焦げを湯でといたスンニュンではあったが、自動炊飯器の普及でご飯が焦げなくなった。そこで湯に焦げていないご飯をといてスンニュンにしたり、韓国では商品化されたヌルンジを使ったりする。 近年、薬水と呼ばれるミネラルウォーターが目立つようになって来たし、韓国では「食醯」と呼ばれる「甘酒」が商品化されて急速に広まっている。 コーヒー、紅茶、ウーロン茶と新しく台頭したものと、再登場の緑茶に対して薬水、スンニュン、穀類茶、薬用茶、食醯などの在来飲料が、どのように消費されるのか、飲料文化は曲がり角ともいえよう。(鄭大聲、滋賀県立大学教授) [朝鮮新報 2003.8.22] |